思えば、子供の頃母親に、「人の真似をしてはいけません」とよく言われたものだ。
「人の振り見て、我が振り直せ」ということわざもある。
どうも、「真似る」ということはこの時代、否定的に捉えられていることが多いらしい。
それは、この時代、「自分らしさ」を表に出したほうが何かと都合がいいからなのだろうか。
それはともかく、俳優の仕事は、まず「真似る」ことである。
俳優は、実にいろいろなものを真似るのである。
たとえば、道端に転がっている石ころを真似てみたりする。
あるいは、台風で根元から折れてしまった樹齢千年の銀杏の大木になってみたりする。
某芸術大学で先端芸術を専攻しているS君は、鶏の真似が大好きだ。彼は上野動物園のペンギンをまねていると言い張るのだが、誰がどう見ても彼その身振りは、彼の茨城の実家の庭先で大事に育てられているウコッケイそのものだ。
その昔、ヤドカリのまねが、絶品だった俳優がいたような気もする、が一番難しいのは「人間」である。
「人間」はつかみどころがない。それは世の中にはさまざまな人間がいるという意味ではない。そもそも「人間」は何かを真似ている存在なのだ。別の言い方をすれば、「人間」は何かを真似ている存在だから「動物」ではなく「人間」なのだ。
だから「人間」が「人間」を真似る場合には、その「人間」が真似ている「何」かを真似なくてはならないのだが、「何」かは、その「人間」を真似てみなくてはわからない。事前にわからなくてはいけないものが、事後的にしか手に入らない。またその逆もある。
「人間」が「人間」を真似る。難しさはそこにある。
さらに困ったことには、観客は俳優が何かを真似た結果、俳優が全然その対象に似ていないと思っているのにもかかわらず、似ているといったり、似ていないといったりするのである。いったい観客は何を欲しているのだ。
ともかく俳優は、真似るということを考え続けなければならない。
いったい何を真似ているのか。
まねる。
間ねる。
磨ねる。
魔ねる。
そんな話をしていたら、某芸術大学で先端芸術を専攻しているS君が、僕は「魔寝る」でいってみますと言い始めた。
彼にとって言葉遊びは、何らかのシステムであるらしい。