劇評集

【2008年上半期 誰も書かなかった傑作舞台!】
ストアハウスカンパニー「箱-Boxes-2008」
西堂行人 「テアトロ」2008年10月号より
 
 舞台上に無造作に置かれた木の箱。その箱を移動させ、積み上げ、組み立てる。たったこれだけの設定で、箱はさまざまな意味合いを持って観客の中に増殖していく。「箱」は、人とモノの対話を誘発するのだ。
 ストアハウスカンパニーが『箱』を初演したのが1998年だった。今から、ちょうど十年前である。この舞台は彼らの新展開ともいうべきもので、それまでの舞台とは異なり、セリフのない身体性を重視する実験的な舞台だった。爾来、この劇団は身体とモノが出会い、錯綜し、絡み合う舞台へ邁進するようになった。その原型とも呼ぶべき舞台がこの『箱』なのである。
2008年に上演された舞台は、前面に幅90センチ、高さ30センチの何の変哲もない箱が積み上げられている。そこに黒い衣裳に身を包み、リュックを背負い、帽子をかぶった五人のパフォーマーたちがやって来る。彼らは箱を黙々と運ぶ。まるでそれは労働の苦役にも似て、単調そのものだ。平面に並べると、そこには沼地に渡された小橋が現われる。箱をつないでつくり出された橋=道。そこを自由に行き来すれば、互いの関係性の比喩のように見えてくる。ある瞬間、それが跡切れて平行線になると、それは関係の断絶を意味することになろう。数瞬間立ち尽くした彼らは、やがてこれではまずいと思ったのか、箱を移動させ、関係の環を回復させる。今度は、箱は井戸のような「穴」を形成する。旅の途上でオアシスのような水場を発見したのだろうか、彼らは生命の泉に触れて嬉々として水のなかに飛び込んでいく。
彼らの行為は、次第に「旅」に似てくる。だが旅は一箇所に留まることを許さない。すぐに次の行動を開始する。彼らがたどり着いたのは、小さな館だったのか。彼らは「壁」に隙間を見つけ、潜りこみ、ホッと息をつく。
いったい彼らは何を考えているのだろう。むろんその意図を知ることはできない。職人が自分の意志とは無縁に手を動かし、長年身体に染み込ませた技術を作動させるように、彼らは箱と格闘し、身体は一つの機械となる。
ダンスや現代美術と隣接するパフォーマンスがそうであるように、劇場で観客は自由に思考する権利を持っている。箱が縦に積み上げられる時、わたしたちは「門」を見るかもしれない。横に並べられる時、そこに「道」を見ることも可能だ。柱が林立すると、その回廊を人は経巡りたくなるだろう。
こうして舞台上の行為に触発された観客は、想像のなかで、もう一つの「旅」に出る。モノと人が自在に組み替えられることで、空間が立ち上がる。その空間を縫うように人が移動する時、その運動性が時間を刻んでいく。観客は、この記号性豊かな空間から、さまざまな記憶を引き出し、自分なりの「世界」を編み上げていくのだ。
自由な解釈を可能とする舞台。だがこうした形象に行き着いた「結果」に、何かしら結論めいたものがあるのだろうか。ラストでパフォーマーは、雛壇に積まれた向こう側に思い思いに飛び去っていく。箱ヤマは崖っぷちに見立てられた。生に絶望した彼らは自死の道を選んだのだろうか。だがやがて、箱ヤマの裏から彼らは姿を現わす。最後は最初に接続し、円環するように終わりがない。ミニマル・ミュージックが繰り返し流れている。
この舞台から「ハルメンの笛」に導かれた集団死やカフカの不条理の世界を連想することは自由だろう。そこに観客が何を持ち込むのかが試されているともいえそうだ。舞台と客席のあいだに<劇>が立ち上がる。
  ストアハウスカンパニーは1994年、江古田の同名の小劇場に併設されるように演出家・木村真悟を中心に設立された。現在は五階にある小劇場を運営するとともに、四階の稽古場を本拠として活動している。劇場に内属した劇団ということでいえば、恵まれた創造環境と言えるだろう。彼らのような身体表現を軸にした実験的な作業には、集団作業をベースにすることが不可欠だ。
ここ数年、この小劇場から『Territory』(01)や『Remains』(05)などきわめて純度の高い舞台が生み出されてきた。だが商業的に成功することをめざさない彼らの作業は、演劇界で認知される場所を持ちにくい。だから海外に活動の場を求める。今年の夏も韓国の浦(ポ)項(ハン)の演劇祭に参加する他、秋以降ヨーロッパ(ドイツ、フランス、オランダ、スイス、ロシア)を回遊する。
こうした実験的な舞台やカンパニーが、日本という共同体で正当に評価される日は来るのだろうか。