劇評集

集団の解体と個の誕生
『縄』から『Territory』への飛躍 
新野守広 2001年12月
 
『縄II』は、五人のパフォーマーが足音を合わせて一列に突き進みながら、アラベスク模様に似た行跡を床に描くシーンからスタートする。スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックがかかる中、あらかじめ定められている行跡を乱さぬよう一心不乱に突き進む五人のパフォーマーの姿は、日本の組織のあり方そのものだ。当初床に整然と積み重なって置かれていた無数の縄は、パフォーマーが縄を拾い上げる動作を繰り返すうちに床全面に散乱し、パフォーマーたちは散乱した縄に絡まり、倒れ、縄に埋もれてしまう。起き上がった五人は、一本の縄を使って縄跳びをはじめるが、この縄跳びは遊戯の楽しさを欠き、あまりに真剣かつ一生懸命行なわれるため、縄を使った別のゲームに化ける。それは解体社のパフォーマンスを思い出させる身体の投げ込みと受け止めのゲームで、一本の縄の中に五人のパフォーマーが身を投げ入れ、全員が一斉に回転する。縄からはつねに一人が弾き飛ばされる。弾き飛ばされた一人は、動きを失ってしばらくたたずみ当惑するが、再びゲームの中へ身を投じる。五人のパフォーマーはこのゲームを体力の限界まで繰り返す。体力の限界がゲームの終わりだ。ここには、高速に回転する機構を維持する作業だけが生きる感覚を与えるグローバル社会への批評が、パフォーマーをフィジカルな限界へ挑戦させるゲームとして提示されている。
 さらにパフォーマーたちは、縄を頭部から顔面に巻きつけ、エレファントマンのような格好になる。そして、お互いの顔面の縄を引きずりあい、大乱闘がおこる。この大乱闘が静まると、天井から縄の塊がいくつか落ちてくる。塊の中には白シャツと黒ズボンが入っていて、パフォーマーたちはこのシャツとズボンの中に縄を詰め込み、自分の人型(分身)を作り、人型と格闘を始める。舞台左手奥に積み重なっていた塊は、実はたくさんの人型の積み重なった山であって、パフォーマーたちはこの塊を崩し、放り投げ、舞台一面を白シャツと黒ズボンの人型で埋め尽くす。放り投げられ、宙を飛ぶ無数の人型は、緊張状態の臨界点を越えた社会のカオスを過剰の遊戯として表わしている。ここで表現されている秩序の崩壊は、秩序の極限化が極まった末に反転したカオスなのだ。この圧倒的な過剰のイメージを最後に、パフォーマーたちは床一面に散乱した自分たちの人型の中に埋もれ、人型と見分けがつかなくなり、暗転する。パフォーマーたちは、ここに象徴的な死(集団への解体)を迎える。
 人間の集団が持っている危うさと滑稽さを極大化して表現する『縄II』は、パフォーマーのフィジカルな条件を極限まで酷使しながら遂行される見事な集団批判だった。パフォーマーが舞台上で自らの身体を酷使することによって、集団批判がその場でパフォーム(遂行)されていたからである。
11月のフィジカルシアター・フェスティヴァルで上演された『Territory』は、ストアハウス・カンパニーの上演史のなかで長く記憶に留められるにちがいない。『Territory』は個の生成をテーマとしている。集団に対する個の死をテーマにしていた『縄II』から180度転回して、新しい個の生成の希望を萌芽的に表現する点に決定的な飛躍がある。それだけ集団としての力量に自信が出てきた現われなのだろう。
『Territory』も『縄II』と同様、スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックに合わせて五人のパフォーマーが舞台の床に行跡を描くシーンから始まる。舞台中央には古着が積まれており、パフォーマーの動きにつれて古着は舞台全体に散乱する。黒シャツに黒パンツを身に付けたパフォーマーたちは散乱した古着に身を投げ出し、転がり、戯れる。
『Territory』はここからリズムが極端に遅くなる。床に転がるパフォーマーたちの動きはほとんど静止する。動きを止めた彼/彼女たちの体にエネルギーが蓄積され、言葉が溢れ出ようとしているかのようだ。パフォーマーたちは身に付けていた衣服を脱ぎ、裸になる。そして、古着の山のなかからビニール袋を探し出し、ゆっくりと袋の中にもぐりこむのだ。ちょうど胎児と同じ姿勢を取りながら、パフォーマーたちは死から生への象徴的な儀式をとり行う。五人のパフォーマーは、ビニール袋にくるまっておそろしくゆっくり立ち上がってくる。袋の動きに呼吸のひとつひとつがはっきり見え、裸の身体から飛び散る汗が袋の内部にこもり水滴となって視覚化される。生身の感覚がストレートに提示され、新しい個の誕生のイメージとして観客と共有される。もちろんこの死と再生の真剣な儀式は、映画『エイリアン』のイメージを喚起するため、どこか滑稽な印象がまといつく。しかしビニール袋にくるまって立ち上がってくるパフォーマーたちが、死と再生の儀式をその場で体験し、観客も傍観者の位置を離れて再生の体験を共有できることを、誰も否定できないだろう。
 ただし『Territory』は、個の誕生を高らかに祝福するような楽観的な終わり方をしない。五人のパフォーマーたちはゆっくりとビニール袋を破って立ち、あたりに散った古着の中から無作為に服を選んで身に付け、普段着の姿になる。そして冒頭のフォーメーションを繰り返し、結局倒れていく。このように日常は繰り返され、新しい一日は昨日と何一つ変わらない。では袋を破って生まれ出た新しい個は、幻だったのか?再生の儀式で流された大量の汗は、どこへ消えてしまったのか?パフォーマーの裸体は日常生活の中に埋もれてしまい、散乱する衣類につつまれて、もう二度とあらわにならないのだろうか?
 この疑問には、次回のパフォーマンスが答えてくれるだろう。『Territory』を見た観客は、ストアハウス・カンパニーのパフォーマーたちが未知の体験をしたことを信じて疑わない。それは新しい個の誕生という体験であって、彼/彼女の心と体の奥底を決定的に変える出来事であったのだ。