劇評集

『アジアという亡霊を離れて』より 
新野守広 2003年1月
 
 伝統演劇と西欧近代劇との深い断絶は、どちらか一方を身につければよいという性質のものではない。むしろ、そのどちらからもはるかかなたに遠ざかってしまったという認識も、今日の演劇の身体を構想する際の有力な出発点になる。
 ストアハウス・カンパニー公演『リメインズ』(「フィジカル・シアター・フェスティバル」)には、伝統演劇の身体も西欧近代劇の身体もない。若い俳優たちが演出家との稽古の過程を重ねて作り上げた個的な身体がそこにあるだけだ。個的とは、いかなる身体技法にも依存しないという意味である。能、歌舞伎といった伝統演劇から、近代劇のせりふ術、発声法等、今日およそ舞台をつくりあげる際に必要とされているすべての身体技法は、『リメインズ』の舞台からは削除されている。おそらくこの集団の稽古とは、削除する過程そのものを意味するのだろう。削られていったのは、とりあえず舞台を成立させるための了解可能な身体の振舞い方と呼べるものだ。そのような振舞い方を禁じられた俳優たちは、安易に演技をする個性的な方向を捨てている。それは、全体の動きを背景に使い、自分を全体に対する関係として表現する方向と思える。個性とは主体的な表現に与えられた褒め言葉だが、ストアハウス・カンパニーはこの褒め言葉を疑っている。人間はむしろ、全体に対する関係として動くとき、はじめて個性を発揮するのではないだろうか。舞台から聞こえてくるテーゼは、このように響いてくる。
『リメインズ』では、俳優たちは舞台にうずたかく積まれた古着の山に埋もれている。彼らはゆっくりと立ち上がり、暗い舞台に数本走るビーム上の光線に姿を曝しながら、静かに音もなく歩き、やがて隊列を整え、足音を合わせてかなり早足で歩きはじめる。一心不乱の歩み。彼らの歩みの軌跡は、前作『テリトリー』と同様に、円を主体とする幾何学模様である。歩調が極端に早まり、狭い舞台上で五人の体がぶつかり合うほどになると、突然彼らの歩みのスピードが緩み、倒れては起き上がる動作が始まり、ついには全員倒れてしまう。再び立ち上がると、一連のパフォーマンスが始まる。まず、上半身裸になった男女二人に黒いガムテープを巻きつけてぐるぐる巻きにし、さらに水に濡らした新聞紙で上半身を覆う。顔も覆われるので、呼吸ができるのかどうか、見るものは不安にさせられる。この拘束行為を行うのは、頭からストッキングをかぶった二人の男女である。次に全員が頭からストッキングをかぶり、手当たり次第に相手を見つけて、ストッキングを引き合う。目一杯体重をかけて引っ張るので、ちぎれんばかりに伸びきったストッキングのなかで、顔が歪む。
 これらの行為は、暗い空間のなかで無言で行われる。全体主義のイメージがしばしば喚起されるが、それは、個々の俳優が全体の動きに対する関係として自分を表現しているところからきているように思える。人間存在の関数的側面を取り出して舞台化すると、こうなるのかもしれない。それは、人間の人間的な幻想を捨て去り、群集としての実態を見せるものになる。一連のパフォーマンスは、拘束と解放、敵意と依存とを同時に併せ持つ群集としての人間のケーススタディーに思える。劇団解体社も、人間の幻想を捨て去ってはじめて生まれる身体をもとに、群集と個の関係を追及しているが、その追及のベースには舞踏から出発した身体技法がある。解体社とおなじテーマを追及するストアハウス・カンパニーは、そこに集まる若い俳優たちが何ら身体技法を持たないというゼロからの発想に賭けているようだ。したがって舞台の動きのリアリティーは、若い俳優たちの日常生活のリアリティーとさほど遠くない地点に設定されている。ただ、そこは日常生活とは連続していないので、慣れない観客は何を見て良いのか途方に暮れることも多いのかもしれない。
 人間という幻想を舞台上に再現しない態度は、西欧近代の鏡面としてのみの意味を担ってきたアジアという枠から外に出る出発点である。しかしこの態度を舞台の原理としているのは、日本の劇団にのみ見られる特徴のようだ。「フィジカル・シアター・フェスティバル」に昨年招聘され、今年は三百人劇場で『真夏の夜の夢』を上演した劇団旅行者、あるいは「ハイナー・ミュラー・ザ・ワールド」に招聘された劇団チャンパなど舞台を見ていると、舞台の核心を祝祭性に見いだそうとしているのがはっきりとわかる。一方ストアハウス・カンパニーやDA・Mの舞台からは、祝祭性は排除されている。演劇祭自体は祝祭だが、その舞台は非常に禁欲的な傾向を示しているのが、両劇団の特徴のように思える。イランの政治状況を換喩化するイランの劇団シアター・バジ(「アジア・ミーツ・アジア」)や、闇と光を効果的に使ってシンプルな身体性を再発見させるインドネシアの劇団シアター・ルアングは、祝祭性に重点を置く演劇とは異なる演劇の可能性向けて多くの示唆を与えている。