劇評集

2006年の舞台と前衛劇の現在
日本照明家協会雑誌2007年4月号より
西堂行人
 
 2006年の日本の演劇界はどうだったのか。
 多くの論者が指摘するように、わたしもこの1年は近年になく低調だったと思う。前年は演出家・蜷川幸雄の尋常ならざる多彩な活動や、永井愛のタイムリーな秀作『歌わせたい男たち』のように、1年を記憶づけるエポックメーキング的なものがあった。だが、06年にはそうしたものがほとんど見当たらなかった。
 たしかに話題はなくはなかった。例えば、イプセン、ブレヒト、ベケットの没後、生誕の記念年に当たり、それにちなんだ舞台やシンポジウムなどの企画が目白押しだった。ベケット作、佐藤信演出の『エンドゲーム(勝負の終わり)』、あるいは鈴木忠志、16年ぶりの東京・新国立劇場公演、平田オリザの青年団が『ソウル市民』三部作を連続上演するなど話題性には事欠かなかったものの、どれも新しい発見はなかった。他方で、ここ数年、若手の舞台が注目を集めるようになったが、本来、停滞した情況を打破するはずの若手劇団の舞台がいずれも自分の身の丈を超えない等身大の演劇に終始し、格差社会を映し出すかのように、貧しい下流社会の生活態を反復してみせたにすぎなかった。冒険をせず、保守的な姿勢すら感じさせたのである。
 だが、もっと深刻だったのは、創造現場の疲弊が目立ち、劇団の創造活動に活力を見出せなかったことだ。そうした停滞を裏書きするように、成果とおぼしき舞台の大半がプロデュース公演だった。なかでも注目を集めたのが、シス・カンパニーのプロデュース公演である。ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の『ヴァージニア・ウルフなんてこわくない?』はこの一年でもっとも高く評価された舞台だった。主演の段田安則は読売演劇大賞の大賞に輝き、同作は朝日舞台芸術賞、紀伊国屋演劇賞など多くの賞を獲得した。菊池寛原作の『父帰る』を草彅剛を起用するなど豊富なタレントや俳優を売出し中の演出家と組み合わせ、埋もれた名作を発掘するなど良質な企画が群を抜いていた。だがこれは美知の新しい才能を発見、育成する事業ではなく、すでに知られた人材を利用した企画に他ならず、演劇界の新規のモーターを動かしたわけではない。その意味では、シス・カンパニーへの注目はかえって演劇界の停滞を確認させてしまったのである。
 では新しい動向や可能性はありうるのか。こうした時代のなかで、「前衛」を旗印のようにする運動が立ち上がりつつあるのは大事な動きだろう。「前衛」という言葉は80年代以降、死語のように思われてきたが、今ではこの言葉の響きが新鮮に聞こえ、その有効性が今一度問い直されてきたのだ。
今年に入ってから、わたしは「前衛」という言葉に値する舞台をいくつか見た。その一つはベルギーから来日したヤン・ファーブルの『わたしは血』である。彩の国さいたま芸術劇場で上演されたこの舞台は、「血」がもたらす歴史と闘争を描き出したものだ。現代をさかのぼると、結局人間の歴史は中世にまで行き着いてしまうという認識に始まって、ファーブルの独創的な知見と詩的インスピレーションは、中世と未来を身体で結んでしまうのだ。極限まで絞り込まれた身体の動き、血の連綿たるつながりと暴力、圧縮された舞台の行為は、現在を覆う病理現象をと世界の破局を垣間見せるものであった。全体を貫くプリミティヴな志向、徹底した妥協のない舞台への構えは、とりとめのない日常を切り裂いて、鋭い緊張の中に観客を連れ出した。日頃見慣れた大衆娯楽的な芝居とおよそかけ離れたファーブルの舞台を見て、この劇場の観客たちは面食らったかもしれない。けれども、全裸も辞さない過激なパフォーマンスに触れて、世界を呼吸する<現在>とはこういうものだと知ったのではあるまいか。
 この舞台を見た前日、わたしは同じような挑発に溢れた舞台を見た。それはストアハウスカンパニーの『Ceremony』だ。小劇場の舞台中央に大量の古着が置かれている。そこに五人のパフォーマーが登場し、思い思いに歩き出す。やがて彼らは列を作り、またその列から離れていく。それは単調な繰り返しのようでいて、微妙に五人の中で駆け引きがある。彼らは中央にある山を上っては下りる。山は次第に崩れてきて、舞台は散乱した古着の場と化す。パフォーマーはその中に潜り込み、脱衣する。舞台上に散乱するゴミの山と、苦闘するパフォーマーの姿から、世界に拮抗しようとする身体が立ち上がり、観客は彼らの行動に目を釘づけにされた。果たして彼らは平穏な日常に回帰していくのか、それは分からないままパフォーマンスは終了する。その回答はあくまで観客に委ねられた。パフォーマーとともに、観客もまた緊張を強いられる1時間余の舞台である。ファーブル同様、身体に着目していく場合、<裸>は避けがたい。身体をおおう衣服を脱ぎ、プリミティヴな原点を志向する時、パフォーマーの身体は否応なく一糸まとわぬ姿に立ち戻るからである。
 ヤン・ファーブルはヨーロッパでもっとも過激で先端的なパフォーマンス・アーティストである。20年前に初来演して以来、幾度も来日し、一昨年は世界でも名高いフランス・アヴィニョン演劇祭のディレクターを務め、まさに世界の前衛をリードする存在である。こうした世界の前衛が来演する中、日本にもそれに拮抗する動きは確実に存在する。同時期に公演を持っていた解体社の『連鎖系』シリーズやOM-2の『ハムレットマシーン』もそれに連動するものだった。
 世界との同時性を考えていくとき、「前衛」の動きは今後とも目が離せない。