シアターアーツ 2012春号
連続批評-徐々に揺れがおさまるなかで4
新野守広 2012年3月
 
 ストアハウスカンパニー公演『Ceremony2012-おひさまのほうから』(作・演出=木村真悟、上野ストアハウス、)2月26日)は直接震災を扱った作品ではないが、身体表現と社会との関係を考える上で重要な示唆に富んでいた。
 同カンパニーは10年以上もの間、『箱』、『縄』、『Territory』、『Remains』、『Sanctuary』、『Ceremony』、『Limit』という一連の作品群を世に問い、再演を繰り返すなかで、言葉を最小に抑え、集団での身体表現を追及してきた。今回の舞台には8人の俳優が参加しているが、初期から公演に参加してきたのは真篠剛だけで、メンバーはほぼ新しくなっている。
 開演前の舞台には古着がうずたかく積まれている。ピアノ音を中心に構成された音楽(作曲=伊澤知恵)が聞こえるなか、黒シャツ黒ズボンの8人の若い男女が歩き出し、憑かれたように速度を上げ、古着の中に登って懸命に足踏みする。これは体力的にもかなりきついようで、俳優たちの激しい呼吸が狭い劇場に響く。続いて彼らは倒れ、床に散乱した古着を手当たり次第にまとい、ころがり出す。何度も繰り返しころがる8人の回転周期が一致し始めると、そうでなくとも散乱する古着で被災地の避難所のイメージを喚起する舞台は多くの人々を飲み込んだ津波にも重なって見えてくる。
俳優たちは服を脱ぎ、下着姿になって静止する。音楽の曲想が変わると、彼らは古着を抱えたまま、再びころがり始める。今度は立ち上がる動作が含まれるため、体力の消耗はさらに激しい。ただ、全身汗にまみれた俳優たちは終始うつむき加減であるため、突き抜けるような肉体的恍惚感が表現されることはない。
やがて、下着姿の汗だくの男女8人は、床に散らばった古着から適当なものを身に着けると、思い思いに言葉を語り出す(「動け」「小さい/頃には/神様がいて/毎日/夢を/叶えてくれた」「横山大観先生が昭和33年89歳でお亡くなりになるまで・・・」)。そして2人、あるいは3人ずつ、つかみないながら、客席に向かって迫り、倒れ、舞台後方に退き、再び客席に向かってくる。反復音楽を思わせる曲が流れるなか、ついに全員が糸玉のように絡み合い、必死に揉み合う。しばらくすると8人は互いに離れ、床に散乱する古着のなかからランドセルや帽子を拾い、やや前のめりの姿勢を取りながら客席に向き合う。ヘリコプターの飛行を思わせる音が聞こえ、不安感が舞台を覆うなか、カーテンコールとなる。
ほぼ1時間半、人間一般の死と再生表現するパフォーマンスは、観客の心を深いところで動かす。ある場面では、軍事訓練に見えるほど集団の起立性が強調される一方で、体力を消尽して倒れた俳優たちが黒に統一された服を脱ぎ、思い思いのカラフルな古着に着替え、自立を表現する場面もある。彼らは観客に自分を見せようと互いに格闘し、再び孤立し、漠然とした不安と危機感におびえながらも、客席に向かう姿勢を保とうとしているようだった。
 このような俳優たちに、上意下達の日本社会のなかで格闘する自分の姿を投影した観客もいただろうし、日々の日常生活の細部を重ね合わせた観客、あるいは戦前の全体主義期から戦後の民主主義導入期を経て連戦後の現在に至る日本の現代史が凝縮されていると感じた観客もいたと思う。私個人は、東北の避難所や津波を暗示する場面で息を飲んでしまった。しかしその衝撃は、十年来のカンパニーがの活動が生み出した表象系列の間で揺れ動き、溶解した。公演の時間を体験するなかで、いわば再生の感覚を得たように感じたのである。震災という集団的トラウマとどのように付き合うべきかを考える上で、示唆に富む体験だった。