ハナコ/メイド 〜劇作家 如月小春について小論〜
杵渕里果

メイド: あ、これは立ち入ったことを。大変御無礼いたしました。
     ただ、お珍しいもので、今の季節にお一人でお見えだなんて。で、いったい何の?
女 :いつもこんな風?
メイド:は? 『夜の学校』


そうね、確かに私たちはいろんなものを食べなくちゃならないわ。甘いものも、とがったものも、こわいものも冷たすぎるものも何もかも。でも食べるのよ。今は。泣きべそをかくのをやめて食卓の上のものは何もかも我慢して胃袋に詰めこみなさい。 『ロミオとフリージアのある食卓』79年

何かの肉だよ、きっと。とろけそうだ、体の中で。知ってる? 蛋白質と酵素は絵具のように混ざりあって血液になる、なるのがわかる。 『家、世の果ての…』80年

街のどこかでありあまるあれらの(け)ものたちに取り巻かれて、ひっそりと餓死していった、無数の姉妹たちの眼の奥に。 『ISLAND』85年

 拒食症患者は、70年代から増加し始める。一般に認知されるようになったのは、80年代半ばになってからだ。81年に鈴木その子の長男が死亡しての最初の出版、83年にカーペンダーズの女性シンガーが死亡、そこ頃から雑誌登場件数も、医療的な出版も増えて行く。
 1956年に生まれ2000年に早世した劇作家如月小春は、ニ十代に拒食症であった。55年生れで拒食症になった詩人伊藤比呂美は、当時は家族はおろおろするばかりで、月経がなくなったため産科に連れて行かれたと書いている。伊藤はその後、医師と共著、摂食障害の経験者としての互助組織での講演を続けている。一方、如月は『DOLL』という女子高性に人気の高い戯曲を書き、上演以外では、小中高生向けのワークショップ、アジア女性劇作家会議の呼びかけ等の幅広い活動でも知られるものの、拒食症に関した活動はなく具体的な記述も殆どない。初期の戯曲をそのつもりで読めば、それが為と思われる苦悩を見つけられる。
 如月が93年に函館で行った「女性の生き方」と題する講演記録に因ると、大卒後に秘書になり、性の役割が一方的に押し付けられる職場状況が引きがねで拒食症に陥った。「ダイエットが理由だけ出起こるものではないんですね」と付与しいることから、恐らく、メディアに多く登場するのはダイエット起源の拒食症なので、この病名から気分的に距離を置いていたのではないか。
 消化器系の症状が拒食症を招くこともある。子供の腹痛でも分るように、自律神経下で働く消化器官には心理的影響が出やすい。如月はエッセイや作者ノートに、胃痛の報告をよく残す。同年生まれの野田秀樹も、学生時代の胃痛の如月を回想している。拒食症について書かなかったのは、病識がない当時としての、怖れや恥の意識もあろう。
 如月はまた、体重が30kgまで落ちたという。一般に35kgを割ると死の危険が迫り、9%が死亡する。戯曲には、血糖値の低下による眠気、心拍数の過動、瘠せ皺のイメージが頻出する。
 
たとえ額に百万本皺がきざまれようと、あっけらかんと森永ドーナッチョほおばって永遠の十三の春を謳歌することこそ、お姉様、あなたの役割じゃなかったの?『ロミオ・・』
 
3月26日 午前中、微熱。医者は気のせいだという。考えすぎるせいなのだと。どうすれば考えすぎずにすむのかと考えながらうつらうつらする。『リア王・・』

お前が老いていく、共に老いて行くのを見ている、あの、ゆったりとした吐き気のような不健康に熱っぽい声音のことを。
このまんまじゃあ、まるで駄目だ!『家、世・・』

.家庭、規則
 如月は摂食障害の説明にありそうな、典型的な家庭にいた。同講演では、母親は医者や作家になりたいと望みながら主婦として、娘にその夢を注ぎつけ、如月が慕った祖母はよい結婚を望んだ。「それぞれ自分のできなかった生涯の夢を、初孫で長女である私に、両側から託そうとする。それは重たかったし、今尚重い」とダブルバインドを述懐する。しかし、そうした成育史と摂食障害を重ねて語ってはいない。如月のプレッシャーが困難なのは、祖母と母、伝統と自立の側からの、つまり女性への、家父長制からと資本主義からの要請が矛盾するからだ。それ故、現代の摂食障害に関する一般向の本には、「規則」にせよ、体型理想にせよ、フェミニズムの学習が提言され、その視点からの反省を促す。講演にはその視点がない。
 安全であるはずの食の引起す摂食障害は、不可解な心の闇を想像させるが、斎藤学医師は、摂食障害をアルコール含め薬物依存と関連付ける。拒食症の20人に1人は男性で、男性はよく薬物依存が併行するという。健康であれ、誰でも仕事や人間関係にある程度依存して生きており、突然の愛着対象の喪失にあえば心理的打撃が生じる。しかし、その不安によって生じた身体感覚を、薬物や食欲に過剰に転化すると、依存症になる。
 ダイエットで、食べ方への細かい規則に過剰に没入して拒食症に陥ることがある。如月は講演で、拒食症から立直る契機をある種の規則からの解放として語っている。「私は芝居をやりながら、働きながら、何かもっとえらいことをいわなければならない、いい生き方をしなければいけない、しっかししなければいけない、という、何か非常なプレッシャーの中で、これじゃ駄目だ、これじゃ駄目だと思いつめていた」。この時点で学生劇団の綺畸が終り、NOISEという集団を開始したと語る。が、当時既に如月は「演劇第三世代の旗手」としてマスコミでも活動をはじめている。伊藤比呂美が拒食や過食を起しながら詩を見せに歩いたように、如月も拒食症と並行に行動していた計算になる。体重30kgを割っても病院を走りまわる拒食症の患者が、誤診を招き死亡することがあるという。人間の身体は飢餓に強い。

.フェミニズム、自立
 80年『家、世の果ての…』という戯曲では、多くの役名と場面設定が交錯している。場面には大きく、広く暗い抽象的な場所、スーパー不夜城の人工的な街、スーパー店員と密通する百合子と夫の猫河原。愛犬と消えた美少女はな子を探す母親、等だ。
 しかし注意して読めば、百合子の密通相手は精神科医とも呼ばれ、その医者から、猫河原は妻百合子を取戻そうとする。猫河原は、精神科医に病状と入院を相談する。はな子の愛犬は中盤、「俺がそのお父さんなんだよ。お前には俺が犬に見えていたらしい」と独白、医者はハナ子に「何のためにあなたはこんな世の果てまでやってきたんです?」等と質問するたび、ハナ子は「ちがわい!ちがわい!」と反撃する。
 百合子の不倫だが、如月はよく三角関係を人間関係のテーマに据える。後年のエッセイによるとそれは学生時代の「稚ない"三角関係"を通して、人が生きて行く上でどうしても避けて通れない"痛み"を知った」から、「三角からはじき出される男の物語」を書く。また、不安な主婦を登場させることについては、「もしかしたら私自信がなっていたかもしれないサラリーマンの「妻」だ。私の奥底にある、もう一人の私をいきる日々、それが私にとっての芝居」だからだという。
 ここでの百合子は、拒食症の娘を持った母であり、また如月の「将来」であろうか。百合子とはな子は二人とも、首を吊って死ぬ。少女は百合子と呼びなおされながら、猫河原と「シアワセニナロウネ」と繰返す。これは一家の終点であり、また新しい男女の始りに思える。
 如月は、88年10月にアメリカの第1回国際女性劇作家会議に招かれる。そこで「女性として演劇に関ること」を意識しはじめ、そこで知合ったアジアの女性作家達と結び、92年第1回アジア女性演劇会議の開催となる。
 88年のやや前、2月の伊藤比呂美へのインタビューには、「私にはフェミニズムと正面切って対面したという経験がないのね・・フェミニズムなんてどうでもいいやと思っている時期がつい最近まであった・・悪いもの、きたないもの・・いろんなもの知らなければ浮世じゃありません…こういう感覚が、比呂美さんのフェミニズムなんじゃないか」と語り、話題が月経に繋がっていく。つまりここでは、女性の身体感覚による表現を、フェミニズムと言うように受取れる。因みにこの伊藤との対談で拒食症は語られない。4月には木野花と対談し、木野が「フェミニズムなんてことに関してはほとんど考えてなかった…それは個人的なことでしかない・・・私なりのフェミニズムを持っていればいい」のでは、という意見に同意している。
 97年、「柔らかなフェミニズムを目指して」と題された、外岡尚美による雑誌インタビューにおいて如月は、フェミニズムには「男性と女性の支配と被支配の関係や性的役割という視点から見る考え方もあるとは思う」と留保し、「被支配、非中心、被植民地的なものの視点から、どのように世界を変えることができるかが、私にとってのフェミニズム」と語っている。それ故、公共の、アジアの、演劇をとりまく環境の、あるいは子供とお年寄りとの演劇をやりたい、と繋いでいる。換言すれば、支配/被支配、中心/非中心、植民/被植民、営利/公共、欧米/アジア、内部/環境、若者/子供とお年寄、つまり、如月にとってフェミニズムとは、男性/女性の対立のうち後者に属するものの、自己差別といえよう。これは女性による、女性性の再定義でもある。所謂<個人的なことは政治的である>フェミニズムに、<私にとってのフェミニズム>が10年を経てなお違和感を抱き続けたことが読取れる。
 ところで管孝行は、拒食症から立直る時期の如月について、恐らく拒食症というタームを得ない状態で、母親からの自立が課題であったと推測している。管は、如月の母親は自立に夢破れた「悲劇の戦後第一世代」なので、娘に夢を仮託しつつも手元に置きたい「矛盾した欲求がある」と仮定している。劇団綺畸の終焉という壁で「誰とも口がきけなくなっても、母とだけは口がきけた、ということは、分離独立すべき母の胎内に、なお密着するものを感じていた・・そこからの旅立ちは、かなりの苦しみを伴うものだったに違いない」とする。
 現代の拒食症患者のようなケアの体系のない中で、如月はどのように「自立」を果したのだろう。
 
.ヴェイユ、依存シフト
 如月は渡米した翌年、89年のエッセイで、高校時代にシモーヌ・ヴェイユに夢中になったことを回想している。ヴェイユは20世紀初頭のユダヤ系ブルジョア家庭に生まれ、自ら被抑圧者となるために、工場に働き、従軍し、貧しい者以上のものは食べないという倫理的な志により、43年に自ら餓死を選んだ。如月はそれを、「勇気ある行動にしても、結果的には世界を変え得ず、自己陶酔に終ったのじゃないか」と思ったと書くが、ヴェイユへの憧れが拒食中の彼女を支え、また管孝行が「社会派とよばれなかったかふしぎなほど」と表現する、消費社会批判、「世界」を問う演劇に向わせていなかったか。
 拒食症を始め、依存症は治るのに個人差がある。伊藤比呂美は食とのかかわりを、母乳、愛情、精液、口から出る言語、様々なメタファーで詩に登場させてきた。いつなぜ治るか知れない中で、おそらく如月も、自分が何を拒絶しているのか考えたであろう。その一つの解答が、ヴェイユの書く、悲惨な労働を強いて成立つ産業社会への拒絶ではないか。如月に社会的な注目を集めさせた戯曲『ロミオとフリージアの食卓』に即せば、如月はドーナッツではなく、森永ドーナッツを食べたくない。スーパー不夜城で売られるものは食べたくない。彼女の台詞はしつこいほど、商品名や消費のシンボルに転換されてゆく。
 杉並に育ち小学校から成蹊に通い、「人並にピアノを習った」という彼女が83年『工場物語』と題する戯曲を書く。ヴェイユには『救われたヴェネチア』という戯曲がある。都市(ヴェネチア共和国)転覆の陰謀があったが、クーデターの指揮官が都市と一人の娘への愛情を感じ、親友を裏切り陰謀を密告、計画が頓挫。翌朝、何も知らず目覚めた娘が「来て見てご覧、私の都市よ」と喜んで終幕。『工場物語』は、指揮官と親友と娘の性格描写をなぞり、征服される都市はハナコの家になる。指揮官とハナコは逃げるが死に、親友は別の娘をハナコの身代りにして口説き、自分は「工場」の化身でその欲望を遂げたと言う。死んだ少女は置きあがり「老いたる都市よ!」と拳を挙げ叫ぶ。
 ヴェイユの作品ノートには、「都市、それは社会的なもの(*陰謀)を想起させない/根を持つということは社会的なものとは別のものである」と書かれている。冨原眞弓によるとヴェイユにおいて「根を持つこと」とは、「集団への帰依の誘惑から個人を守るために、言語、習慣、文化などをゆるやかに共有し、それぞれの人間が無理なく根をおろすことができる人的環境」のことである。つまり、都市(国)とは根を持てるべき場所で、ハナコを死なせた都市は、工場による<根こぎ>の後で老い=衰退していたということか。
 あるいは84年より三度バージョンを改めて上演されている『MORAL』の内、26場<MORAL>では、食卓で父親が殺人を語り始める。27場<SUNSET>、初演版では<夏>の場に、兵士の隊列がゆっくり坂を下ってくる光景が現れる。ヴェイユが従軍したのは36年の8月、銃後に待機し、戻った兵隊が食事中に殺戮の分量を語るのに嫌悪の気持を示している。
 高校でヴェイユを読んだという如月だが、研究所の秘書さえ拒食症で中断する。男性社員と「同じ会話を求められない」、女性の役割を「頭から決められる」秘書のいわば職能 を、階級的な苦痛として客観視できていない。また章頭に上げた、ヴェイユにふれたエッセイ部分も6行しかない。ヴェイユに如月がどの程度「夢中になった」かは推測するしかないが、ヴェイユの労働の精神疎外や故郷の自覚と、好況に伴い増大するコマーシャリズムの軽薄さ、あるいは当時さかんであった消費論や関係の希薄化についての論調は、依存症にありがちな離人感や周囲との意志のずれ、自らを追いこむハイテンションや意識の変調と符合していったのではないか。伊藤比呂美の「依存対象を詩に変えた」、という表現を借りれば、如月は「演劇に変えた」、といえないか
 
 その頃、私は《透視》が出来た…知ることも、持つことも、唄う事も呼吸する事も、驚くほどの率直さで世界に連なっていた・・・きらめきにも似たそれ一瞬ののちに、意識は再び、コールタールの鈍重さで沈没していった………。『家、世・・』作者ノート
 
.母、もう一人
 88年の『NIPPON●CHA!・CHA!・CHA!』をみてみよう。後書によると、カルガリー五輪中継で「日本頑張れ!」と予想以上に発奮し目をうるませる自分に戸惑って書き出された。如月はそれを、日本人同士という「擬似共同体的装いをとりはらえば、何とも結びついていない人々は不安のどん底に落ちる。それが怖いから必死でアイデンティティを演じる。演じるほどズレが目についてなってゆくのだ。日本人であることが恥かしいのではない。日本人を演じずにいられない「私」が恥かしいのだ」、と自己分析している。
 この戯曲の舞台は天下一運動靴店で、社長は軍事教練で走った記憶を持つ。娘のハナコはマラソン選手に靴を履かせ父の倒産助けようとする。オオヒラ社長始め、選手のヨシダ、バーのママ・キシ等、登場人物は全て歴代首相の苗字だ。ヨシダは結局、「こわい、こわいよ姉さん、嫌だよ、俺には出来ない…走れ、お前は日本だ…俺は敗ける、もし敗けたら生きては帰れない・・だったら死ぬ気で走ればいいじゃないか」と敗走し、靴店は倒産。が、物語は実はテレビの正月番組で、「大衆の涙を誘うよう」オオヒラ産業のイメージアップを狙っていた。キシは女流エッセイスト。ハナコは会長令嬢に直る。彼らは、本番でカットされた、「君を仰ぎ見るまなざしの、脅威と羨望。美しさに恍惚として、人々は君の名を呼ぶ」、君が代的な台詞を惜しみ口々に唱え、終章を会長令嬢ハナコが引取り、全員が「栄光あれ」と続ける。
 如月は戯曲を「はな子さんの成長物語」があるとしており、その時々の「女性としての自分、表現者としての自分を描いた日記」と言う。この戯曲での劇中劇のハナコは、「まあまあ、皆、毎日遅くまで、すまないねえ、ここらでちょっと一息入れてお茶にしてちょうだいな」と若い設定の割に老けた言葉で登場する。この時如月は32歳。伊藤比呂美と対談で「十代、ニ十代の頃は自分が若いというのがいやで、早く三十代になって「おばさん」とか呼ばれたいと思ってね、三十になったとき、何かほーっと抜けるものがあったの」と話している。ところが、テレビ局での令嬢ハナコは、「宣伝はね、効果が上がって、商品が売れれば、それでいい。嘘もほんともございませんのよ」と計算高い。女流作家・キシも似た調子だ。優しげな下町のハナコも、ママ・キシも、国威高揚の「母」確信犯であった。
 しかしどうも後書きの素直な文章からは、如月一流のブラックユーモアで書いた確信は得られない。むしろ「不安のどん底に落ち」ない為の切実な対策だからと、正当化されてみえる。
 95年の雑誌座談「セクシャリティと権力」で、浅田彰が「母性依存型男性社会」を出し、「「日本ではお母さんが一番えらいんですよ」と言うことでお母さんの役割を放棄できないといういやらしい抑圧」があるとし、それに乗る男性一般を非難すると、如月は、「「男とお母さん」の関係があったにせよ、「男が悪い」とフェミニストの人は言うわけだけど…女のほうだって、お母さんしてるときはすごく気持がいいわけですよ。その居心地のよさの中で大東亜共栄圏にも加担していた」と反論している。所謂フェミニズムへの「私にとってのフェミニズム」の反発を思い出すなら、後者はまた、「えらい」気持よさで、「大東亜共栄圏」から「オオヒラ産業」まで加担してしまう。それほど何ものかに結びつかない時の「不安」が強いといえる。
 翌89年に『女三代の東京』というエッセイがある。祖母、母、如月本人の見た歴代の東京風景を綴り、最後を「女三代の東京の共通の母親は東京であった」と結んでいる。如月が「根をもつ」スタンスは、情緒的に一見正しく、しかし背後に危さがある。
 如月の、母/祖母からの自立という課題は、祖母と母になりかわることで達成されたのではないか。それは、よりよい祖母/母に成る、という"規則"の完遂にもなろう。如月は木野花に「理想の母親像」を、「自分で旗を持って切開くジャンヌ・ダルク的な部分と、ほとんど危なっかしいくらいの天真爛漫さと、縁側にポヨンと座って、あるもの全部許しちゃうみたいな包容力」と話している。理想の「母」ジャンヌ・ダルクとは、国民国家意識の高揚したフランス人のみたジャンヌ像、あるいは「世界を動かす」ヴェイユか。『光の時代』のハナコは、文化祭でジャンヌを演じた。けれど残り二つの「母親像」は、ヴェイユにほど遠い。「天真爛漫」と「許す」理想が、"私以外"にとってのフェミニズムや、ヴェイユ的な他の階級、つまり如月にとっての他者への粘り強い思索や観察を、抑圧しなかっただろうか。
 如月が亡くなった翌年、『如月小春は広場だった〜60人が語る如月小春』というアンソロジーが出版された。そこから伺える如月像は、たしかに彼女が木野花に語った三つの「理想の母親像」を髣髴とさせる。彼女は最初のエッセイの後記を、「母に。「一つにしておきなさい」とと言ったあなたの言葉が正しかったことを今になってやっとわかった私です」と締めくくっている。彼女は選ばず、矛盾に苦しんだのが、結局全てを「母親像」へ溶かしこんだ。
 
 ここで如月が、芝居の中で生きたという「サラリーマンの「妻」」かもしれない「もう一人の私」を戯曲中に追うなら、それはテレビの不倫ドラマに見入り、キッチンドリンカーで、近所の噂、子供を過保護、姑と口論する「私」になる。また職場のハナである「もう一人の私」なら、職場でいちゃつき、上司と不倫し、同僚の価値観にへつらう「私」だ。『NIPPPON…』には、正月番組のト書きで、お茶とおしぼりを配る「局のアルバイトの女の子たち」が、ハナコ令嬢や女流エッセイスト・キシに当然の背景として添えられる。
 92年『夜の学校』の主人公の女教師が泊るホテルのメイドは、詮索好きで最初から教師を苛つかせる。中盤、彼女の不在中に部屋に入り、ドレスや下着、指輪を試している。盗もうとした形跡もあり、女が警察を呼ぶというと卑屈にすがりついて謝る。うんざりして許すと「小さく笑う」。この泥臭いシュチュエーションに挟まれて、夫から逃げる「三角関係」と、兄妹の強い絆から逃げる「三角関係」が重奏される。メイドと教師には、教師を外界へ誘う「青年」が最後に現れる。
 如月はおそらく、理性に遠く、愚劣で不気味な「もう一人」をかかえていた。その一連の戯曲は、ネガティブな「女」に成ることへの過剰な脅迫から、ポジティブな「男」と逃出す反復にも見える。女性のマイナスのステレオタイプに悩まされたのは、彼女にとって「女性」が、不治の<性>であったからだろう。彼女は晩年、日本最初の女性劇作家長谷川時雨の上演を企画していたが、時雨を「時代の故か、女という性故か、あるいは彼女の個人的な資質の故なのか、輝かしさの反面にどうしようもないもろさがある」と書いた。個人的な資質と別に、女という「業」があることを確信していた。家父長制にある"女嫌い"を、おそらく男性以上に躊躇なく内面化し、よりよい「母」として精神を矯正していった。その母像も、天啓のジャンヌ、天真爛漫、縁側で全てを許す、どれも所謂"男性的"な思索に対して"控えめな"印象を受けないだろうか。
 その身体に密着して見える性でさえ、二元論という文化の詐称であり、文化に後天的だと指摘したJ・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の邦訳が完成したのが、如月の死ぬ前年であった。彼女が読んだか分らないが、訳の竹村和子は54年生まれの拒食症の女性である。

. 総括
 如月には、よい「母」よい「女」として自他を枠付けて行くような強い観念がある。如月は「母」として充分に魅力的だからこそ、我々は距離をおいてその業績を顧る必要がありはしないか。
 たとえば彼女のワークショップ記録は暖かく子供もいきいきと描かれる。しかし男の子ばかりが目立ってユニークに登場するのはなぜだろう。U君やA君はいても、少女は苗字を呼捨てに、あるいは数人のまとまりで書かれている。
 また、如月小春はよい聞き手であるといわれる。自身も話すより聞くほうが好みと書き、唯一の小説の女性主人公は悩み事の「聞き屋」であった。しかし、女には作曲は無理だと言われて断念し、また女優よりも音響で演劇を始めたと繰返し説明する如月に、聞く行為は、男性性の記号でもある。如月の聞く対象が音楽から言葉に代ると、我々も自然と「母性」を感じるのではないだろうか。
 如月のなかには、もう一人の私、どやしつけるメイドがいた。メイドの言葉は、如月は殆ど聞く耳をもたなかった。如月の心にいた飲酒し盗みを働く女達を、我々は忘れるべきではない。
 


.参考文献
『如月小春精選戯曲集』新宿書房、01年
『如月小春は広場だった』新宿書房、01年 講演記録
『工場物語』新宿書房、83年
『NIPPON●CHA!・CHA!・CHA!』新宿書房、88年

『はな子さん、いってらっしゃい』晶文社、84年
『はな子さんの文学探検』集英社、88年 伊藤比呂美、木野花
『もう一人の、私』海竜社、95年 ヴェイユ、学生時代

斎藤学『カナリアの歌』どうぶつ社、91年 伊藤比呂美
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ力の寓話』青土社、2000年

シアターアーツ 97/01 インタビュー
シアターアーツ 95/01 座談会
テアトロ 89/10 管孝行「如月小春――都市への愛憎」
テアトロ 92/07 管孝行「如月小春」

メイド: あ、これは立ち入ったことを。大変御無礼いたしました。ただ、お珍しいもので、今の季節にお一人でお見えだなんて。で、いったい何の?
女 :いつもこんな風?
メイド:は? 『夜の学校』


そうね、確かに私たちはいろんなものを食べなくちゃならないわ。甘いものも、とがったものも、こわいものも冷たすぎるものも何もかも。でも食べるのよ。今は。泣きべそをかくのをやめて食卓の上のものは何もかも我慢して胃袋に詰めこみなさい。 『ロミオとフリージアのある食卓』79年

何かの肉だよ、きっと。とろけそうだ、体の中で。知ってる? 蛋白質と酵素は絵具のように混ざりあって血液になる、なるのがわかる。 『家、世の果ての…』80年

街のどこかでありあまるあれらの(け)ものたちに取り巻かれて、ひっそりと餓死していった、無数の姉妹たちの眼の奥に。 『ISLAND』85年

 拒食症患者は、70年代から増加し始める。一般に認知されるようになったのは、80年代半ばになってからだ。81年に鈴木その子の長男が死亡しての最初の出版、83年にカーペンダーズの女性シンガーが死亡、そこ頃から雑誌登場件数も、医療的な出版も増えて行く。
 1956年に生まれ2000年に早世した劇作家如月小春は、ニ十代に拒食症であった。55年生れで拒食症になった詩人伊藤比呂美は、当時は家族はおろおろするばかりで、月経がなくなったため産科に連れて行かれたと書いている。伊藤はその後、医師と共著、摂食障害の経験者としての互助組織での講演を続けている。一方、如月は『DOLL』という女子高性に人気の高い戯曲を書き、上演以外では、小中高生向けのワークショップ、アジア女性劇作家会議の呼びかけ等の幅広い活動でも知られるものの、拒食症に関した活動はなく具体的な記述も殆どない。初期の戯曲をそのつもりで読めば、それが為と思われる苦悩を見つけられる。
 如月が93年に函館で行った「女性の生き方」と題する講演記録に因ると、大卒後に秘書になり、性の役割が一方的に押し付けられる職場状況が引きがねで拒食症に陥った。「ダイエットが理由だけ出起こるものではないんですね」と付与しいることから、恐らく、メディアに多く登場するのはダイエット起源の拒食症なので、この病名から気分的に距離を置いていたのではないか。
 消化器系の症状が拒食症を招くこともある。子供の腹痛でも分るように、自律神経下で働く消化器官には心理的影響が出やすい。如月はエッセイや作者ノートに、胃痛の報告をよく残す。同年生まれの野田秀樹も、学生時代の胃痛の如月を回想している。拒食症について書かなかったのは、病識がない当時としての、怖れや恥の意識もあろう。
 如月はまた、体重が30kgまで落ちたという。一般に35kgを割ると死の危険が迫り、9%が死亡する。戯曲には、血糖値の低下による眠気、心拍数の過動、瘠せ皺のイメージが頻出する。
 
たとえ額に百万本皺がきざまれようと、あっけらかんと森永ドーナッチョほおばって永遠の十三の春を謳歌することこそ、お姉様、あなたの役割じゃなかったの?『ロミオ・・』
 
3月26日 午前中、微熱。医者は気のせいだという。考えすぎるせいなのだと。どうすれば考えすぎずにすむのかと考えながらうつらうつらする。『リア王・・』

お前が老いていく、共に老いて行くのを見ている、あの、ゆったりとした吐き気のような不健康に熱っぽい声音のことを。
このまんまじゃあ、まるで駄目だ!『家、世・・』

.家庭、規則
 如月は摂食障害の説明にありそうな、典型的な家庭にいた。同講演では、母親は医者や作家になりたいと望みながら主婦として、娘にその夢を注ぎつけ、如月が慕った祖母はよい結婚を望んだ。「それぞれ自分のできなかった生涯の夢を、初孫で長女である私に、両側から託そうとする。それは重たかったし、今尚重い」とダブルバインドを述懐する。しかし、そうした成育史と摂食障害を重ねて語ってはいない。如月のプレッシャーが困難なのは、祖母と母、伝統と自立の側からの、つまり女性への、家父長制からと資本主義からの要請が矛盾するからだ。それ故、現代の摂食障害に関する一般向の本には、「規則」にせよ、体型理想にせよ、フェミニズムの学習が提言され、その視点からの反省を促す。講演にはその視点がない。
 安全であるはずの食の引起す摂食障害は、不可解な心の闇を想像させるが、斎藤学医師は、摂食障害をアルコール含め薬物依存と関連付ける。拒食症の20人に1人は男性で、男性はよく薬物依存が併行するという。健康であれ、誰でも仕事や人間関係にある程度依存して生きており、突然の愛着対象の喪失にあえば心理的打撃が生じる。しかし、その不安によって生じた身体感覚を、薬物や食欲に過剰に転化すると、依存症になる。
 ダイエットで、食べ方への細かい規則に過剰に没入して拒食症に陥ることがある。如月は講演で、拒食症から立直る契機をある種の規則からの解放として語っている。「私は芝居をやりながら、働きながら、何かもっとえらいことをいわなければならない、いい生き方をしなければいけない、しっかししなければいけない、という、何か非常なプレッシャーの中で、これじゃ駄目だ、これじゃ駄目だと思いつめていた」。この時点で学生劇団の綺畸が終り、NOISEという集団を開始したと語る。が、当時既に如月は「演劇第三世代の旗手」としてマスコミでも活動をはじめている。伊藤比呂美が拒食や過食を起しながら詩を見せに歩いたように、如月も拒食症と並行に行動していた計算になる。体重30kgを割っても病院を走りまわる拒食症の患者が、誤診を招き死亡することがあるという。人間の身体は飢餓に強い。

.フェミニズム、自立
 80年『家、世の果ての…』という戯曲では、多くの役名と場面設定が交錯している。場面には大きく、広く暗い抽象的な場所、スーパー不夜城の人工的な街、スーパー店員と密通する百合子と夫の猫河原。愛犬と消えた美少女はな子を探す母親、等だ。
 しかし注意して読めば、百合子の密通相手は精神科医とも呼ばれ、その医者から、猫河原は妻百合子を取戻そうとする。猫河原は、精神科医に病状と入院を相談する。はな子の愛犬は中盤、「俺がそのお父さんなんだよ。お前には俺が犬に見えていたらしい」と独白、医者はハナ子に「何のためにあなたはこんな世の果てまでやってきたんです?」等と質問するたび、ハナ子は「ちがわい!ちがわい!」と反撃する。
 百合子の不倫だが、如月はよく三角関係を人間関係のテーマに据える。後年のエッセイによるとそれは学生時代の「稚ない"三角関係"を通して、人が生きて行く上でどうしても避けて通れない"痛み"を知った」から、「三角からはじき出される男の物語」を書く。また、不安な主婦を登場させることについては、「もしかしたら私自信がなっていたかもしれないサラリーマンの「妻」だ。私の奥底にある、もう一人の私をいきる日々、それが私にとっての芝居」だからだという。
 ここでの百合子は、拒食症の娘を持った母であり、また如月の「将来」であろうか。百合子とはな子は二人とも、首を吊って死ぬ。少女は百合子と呼びなおされながら、猫河原と「シアワセニナロウネ」と繰返す。これは一家の終点であり、また新しい男女の始りに思える。
 如月は、88年10月にアメリカの第1回国際女性劇作家会議に招かれる。そこで「女性として演劇に関ること」を意識しはじめ、そこで知合ったアジアの女性作家達と結び、92年第1回アジア女性演劇会議の開催となる。
 88年のやや前、2月の伊藤比呂美へのインタビューには、「私にはフェミニズムと正面切って対面したという経験がないのね・・フェミニズムなんてどうでもいいやと思っている時期がつい最近まであった・・悪いもの、きたないもの・・いろんなもの知らなければ浮世じゃありません…こういう感覚が、比呂美さんのフェミニズムなんじゃないか」と語り、話題が月経に繋がっていく。つまりここでは、女性の身体感覚による表現を、フェミニズムと言うように受取れる。因みにこの伊藤との対談で拒食症は語られない。4月には木野花と対談し、木野が「フェミニズムなんてことに関してはほとんど考えてなかった…それは個人的なことでしかない・・・私なりのフェミニズムを持っていればいい」のでは、という意見に同意している。
 97年、「柔らかなフェミニズムを目指して」と題された、外岡尚美による雑誌インタビューにおいて如月は、フェミニズムには「男性と女性の支配と被支配の関係や性的役割という視点から見る考え方もあるとは思う」と留保し、「被支配、非中心、被植民地的なものの視点から、どのように世界を変えることができるかが、私にとってのフェミニズム」と語っている。それ故、公共の、アジアの、演劇をとりまく環境の、あるいは子供とお年寄りとの演劇をやりたい、と繋いでいる。換言すれば、支配/被支配、中心/非中心、植民/被植民、営利/公共、欧米/アジア、内部/環境、若者/子供とお年寄、つまり、如月にとってフェミニズムとは、男性/女性の対立のうち後者に属するものの、自己差別といえよう。これは女性による、女性性の再定義でもある。所謂<個人的なことは政治的である>フェミニズムに、<私にとってのフェミニズム>が10年を経てなお違和感を抱き続けたことが読取れる。
 ところで管孝行は、拒食症から立直る時期の如月について、恐らく拒食症というタームを得ない状態で、母親からの自立が課題であったと推測している。管は、如月の母親は自立に夢破れた「悲劇の戦後第一世代」なので、娘に夢を仮託しつつも手元に置きたい「矛盾した欲求がある」と仮定している。劇団綺畸の終焉という壁で「誰とも口がきけなくなっても、母とだけは口がきけた、ということは、分離独立すべき母の胎内に、なお密着するものを感じていた・・そこからの旅立ちは、かなりの苦しみを伴うものだったに違いない」とする。
 現代の拒食症患者のようなケアの体系のない中で、如月はどのように「自立」を果したのだろう。
 
.ヴェイユ、依存シフト
 如月は渡米した翌年、89年のエッセイで、高校時代にシモーヌ・ヴェイユに夢中になったことを回想している。ヴェイユは20世紀初頭のユダヤ系ブルジョア家庭に生まれ、自ら被抑圧者となるために、工場に働き、従軍し、貧しい者以上のものは食べないという倫理的な志により、43年に自ら餓死を選んだ。如月はそれを、「勇気ある行動にしても、結果的には世界を変え得ず、自己陶酔に終ったのじゃないか」と思ったと書くが、ヴェイユへの憧れが拒食中の彼女を支え、また管孝行が「社会派とよばれなかったかふしぎなほど」と表現する、消費社会批判、「世界」を問う演劇に向わせていなかったか。
 拒食症を始め、依存症は治るのに個人差がある。伊藤比呂美は食とのかかわりを、母乳、愛情、精液、口から出る言語、様々なメタファーで詩に登場させてきた。いつなぜ治るか知れない中で、おそらく如月も、自分が何を拒絶しているのか考えたであろう。その一つの解答が、ヴェイユの書く、悲惨な労働を強いて成立つ産業社会への拒絶ではないか。如月に社会的な注目を集めさせた戯曲『ロミオとフリージアの食卓』に即せば、如月はドーナッツではなく、森永ドーナッツを食べたくない。スーパー不夜城で売られるものは食べたくない。彼女の台詞はしつこいほど、商品名や消費のシンボルに転換されてゆく。
 杉並に育ち小学校から成蹊に通い、「人並にピアノを習った」という彼女が83年『工場物語』と題する戯曲を書く。ヴェイユには『救われたヴェネチア』という戯曲がある。都市(ヴェネチア共和国)転覆の陰謀があったが、クーデターの指揮官が都市と一人の娘への愛情を感じ、親友を裏切り陰謀を密告、計画が頓挫。翌朝、何も知らず目覚めた娘が「来て見てご覧、私の都市よ」と喜んで終幕。『工場物語』は、指揮官と親友と娘の性格描写をなぞり、征服される都市はハナコの家になる。指揮官とハナコは逃げるが死に、親友は別の娘をハナコの身代りにして口説き、自分は「工場」の化身でその欲望を遂げたと言う。死んだ少女は置きあがり「老いたる都市よ!」と拳を挙げ叫ぶ。
 ヴェイユの作品ノートには、「都市、それは社会的なもの(*陰謀)を想起させない/根を持つということは社会的なものとは別のものである」と書かれている。冨原眞弓によるとヴェイユにおいて「根を持つこと」とは、「集団への帰依の誘惑から個人を守るために、言語、習慣、文化などをゆるやかに共有し、それぞれの人間が無理なく根をおろすことができる人的環境」のことである。つまり、都市(国)とは根を持てるべき場所で、ハナコを死なせた都市は、工場による<根こぎ>の後で老い=衰退していたということか。
 あるいは84年より三度バージョンを改めて上演されている『MORAL』の内、26場<MORAL>では、食卓で父親が殺人を語り始める。27場<SUNSET>、初演版では<夏>の場に、兵士の隊列がゆっくり坂を下ってくる光景が現れる。ヴェイユが従軍したのは36年の8月、銃後に待機し、戻った兵隊が食事中に殺戮の分量を語るのに嫌悪の気持を示している。
 高校でヴェイユを読んだという如月だが、研究所の秘書さえ拒食症で中断する。男性社員と「同じ会話を求められない」、女性の役割を「頭から決められる」秘書のいわば職能 を、階級的な苦痛として客観視できていない。また章頭に上げた、ヴェイユにふれたエッセイ部分も6行しかない。ヴェイユに如月がどの程度「夢中になった」かは推測するしかないが、ヴェイユの労働の精神疎外や故郷の自覚と、好況に伴い増大するコマーシャリズムの軽薄さ、あるいは当時さかんであった消費論や関係の希薄化についての論調は、依存症にありがちな離人感や周囲との意志のずれ、自らを追いこむハイテンションや意識の変調と符合していったのではないか。伊藤比呂美の「依存対象を詩に変えた」、という表現を借りれば、如月は「演劇に変えた」、といえないか
 
 その頃、私は《透視》が出来た…知ることも、持つことも、唄う事も呼吸する事も、驚くほどの率直さで世界に連なっていた・・・きらめきにも似たそれ一瞬ののちに、意識は再び、コールタールの鈍重さで沈没していった………。『家、世・・』作者ノート
 
.母、もう一人
 88年の『NIPPON●CHA!・CHA!・CHA!』をみてみよう。後書によると、カルガリー五輪中継で「日本頑張れ!」と予想以上に発奮し目をうるませる自分に戸惑って書き出された。如月はそれを、日本人同士という「擬似共同体的装いをとりはらえば、何とも結びついていない人々は不安のどん底に落ちる。それが怖いから必死でアイデンティティを演じる。演じるほどズレが目についてなってゆくのだ。日本人であることが恥かしいのではない。日本人を演じずにいられない「私」が恥かしいのだ」、と自己分析している。
 この戯曲の舞台は天下一運動靴店で、社長は軍事教練で走った記憶を持つ。娘のハナコはマラソン選手に靴を履かせ父の倒産助けようとする。オオヒラ社長始め、選手のヨシダ、バーのママ・キシ等、登場人物は全て歴代首相の苗字だ。ヨシダは結局、「こわい、こわいよ姉さん、嫌だよ、俺には出来ない…走れ、お前は日本だ…俺は敗ける、もし敗けたら生きては帰れない・・だったら死ぬ気で走ればいいじゃないか」と敗走し、靴店は倒産。が、物語は実はテレビの正月番組で、「大衆の涙を誘うよう」オオヒラ産業のイメージアップを狙っていた。キシは女流エッセイスト。ハナコは会長令嬢に直る。彼らは、本番でカットされた、「君を仰ぎ見るまなざしの、脅威と羨望。美しさに恍惚として、人々は君の名を呼ぶ」、君が代的な台詞を惜しみ口々に唱え、終章を会長令嬢ハナコが引取り、全員が「栄光あれ」と続ける。
 如月は戯曲を「はな子さんの成長物語」があるとしており、その時々の「女性としての自分、表現者としての自分を描いた日記」と言う。この戯曲での劇中劇のハナコは、「まあまあ、皆、毎日遅くまで、すまないねえ、ここらでちょっと一息入れてお茶にしてちょうだいな」と若い設定の割に老けた言葉で登場する。この時如月は32歳。伊藤比呂美と対談で「十代、ニ十代の頃は自分が若いというのがいやで、早く三十代になって「おばさん」とか呼ばれたいと思ってね、三十になったとき、何かほーっと抜けるものがあったの」と話している。ところが、テレビ局での令嬢ハナコは、「宣伝はね、効果が上がって、商品が売れれば、それでいい。嘘もほんともございませんのよ」と計算高い。女流作家・キシも似た調子だ。優しげな下町のハナコも、ママ・キシも、国威高揚の「母」確信犯であった。
 しかしどうも後書きの素直な文章からは、如月一流のブラックユーモアで書いた確信は得られない。むしろ「不安のどん底に落ち」ない為の切実な対策だからと、正当化されてみえる。
 95年の雑誌座談「セクシャリティと権力」で、浅田彰が「母性依存型男性社会」を出し、「「日本ではお母さんが一番えらいんですよ」と言うことでお母さんの役割を放棄できないといういやらしい抑圧」があるとし、それに乗る男性一般を非難すると、如月は、「「男とお母さん」の関係があったにせよ、「男が悪い」とフェミニストの人は言うわけだけど…女のほうだって、お母さんしてるときはすごく気持がいいわけですよ。その居心地のよさの中で大東亜共栄圏にも加担していた」と反論している。所謂フェミニズムへの「私にとってのフェミニズム」の反発を思い出すなら、後者はまた、「えらい」気持よさで、「大東亜共栄圏」から「オオヒラ産業」まで加担してしまう。それほど何ものかに結びつかない時の「不安」が強いといえる。
 翌89年に『女三代の東京』というエッセイがある。祖母、母、如月本人の見た歴代の東京風景を綴り、最後を「女三代の東京の共通の母親は東京であった」と結んでいる。如月が「根をもつ」スタンスは、情緒的に一見正しく、しかし背後に危さがある。
 如月の、母/祖母からの自立という課題は、祖母と母になりかわることで達成されたのではないか。それは、よりよい祖母/母に成る、という"規則"の完遂にもなろう。如月は木野花に「理想の母親像」を、「自分で旗を持って切開くジャンヌ・ダルク的な部分と、ほとんど危なっかしいくらいの天真爛漫さと、縁側にポヨンと座って、あるもの全部許しちゃうみたいな包容力」と話している。理想の「母」ジャンヌ・ダルクとは、国民国家意識の高揚したフランス人のみたジャンヌ像、あるいは「世界を動かす」ヴェイユか。『光の時代』のハナコは、文化祭でジャンヌを演じた。けれど残り二つの「母親像」は、ヴェイユにほど遠い。「天真爛漫」と「許す」理想が、"私以外"にとってのフェミニズムや、ヴェイユ的な他の階級、つまり如月にとっての他者への粘り強い思索や観察を、抑圧しなかっただろうか。
 如月が亡くなった翌年、『如月小春は広場だった〜60人が語る如月小春』というアンソロジーが出版された。そこから伺える如月像は、たしかに彼女が木野花に語った三つの「理想の母親像」を髣髴とさせる。彼女は最初のエッセイの後記を、「母に。「一つにしておきなさい」とと言ったあなたの言葉が正しかったことを今になってやっとわかった私です」と締めくくっている。彼女は選ばず、矛盾に苦しんだのが、結局全てを「母親像」へ溶かしこんだ。
 
 ここで如月が、芝居の中で生きたという「サラリーマンの「妻」」かもしれない「もう一人の私」を戯曲中に追うなら、それはテレビの不倫ドラマに見入り、キッチンドリンカーで、近所の噂、子供を過保護、姑と口論する「私」になる。また職場のハナである「もう一人の私」なら、職場でいちゃつき、上司と不倫し、同僚の価値観にへつらう「私」だ。『NIPPPON…』には、正月番組のト書きで、お茶とおしぼりを配る「局のアルバイトの女の子たち」が、ハナコ令嬢や女流エッセイスト・キシに当然の背景として添えられる。
 92年『夜の学校』の主人公の女教師が泊るホテルのメイドは、詮索好きで最初から教師を苛つかせる。中盤、彼女の不在中に部屋に入り、ドレスや下着、指輪を試している。盗もうとした形跡もあり、女が警察を呼ぶというと卑屈にすがりついて謝る。うんざりして許すと「小さく笑う」。この泥臭いシュチュエーションに挟まれて、夫から逃げる「三角関係」と、兄妹の強い絆から逃げる「三角関係」が重奏される。メイドと教師には、教師を外界へ誘う「青年」が最後に現れる。
 如月はおそらく、理性に遠く、愚劣で不気味な「もう一人」をかかえていた。その一連の戯曲は、ネガティブな「女」に成ることへの過剰な脅迫から、ポジティブな「男」と逃出す反復にも見える。女性のマイナスのステレオタイプに悩まされたのは、彼女にとって「女性」が、不治の<性>であったからだろう。彼女は晩年、日本最初の女性劇作家長谷川時雨の上演を企画していたが、時雨を「時代の故か、女という性故か、あるいは彼女の個人的な資質の故なのか、輝かしさの反面にどうしようもないもろさがある」と書いた。個人的な資質と別に、女という「業」があることを確信していた。家父長制にある"女嫌い"を、おそらく男性以上に躊躇なく内面化し、よりよい「母」として精神を矯正していった。その母像も、天啓のジャンヌ、天真爛漫、縁側で全てを許す、どれも所謂"男性的"な思索に対して"控えめな"印象を受けないだろうか。
 その身体に密着して見える性でさえ、二元論という文化の詐称であり、文化に後天的だと指摘したJ・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の邦訳が完成したのが、如月の死ぬ前年であった。彼女が読んだか分らないが、訳の竹村和子は54年生まれの拒食症の女性である。

. 総括
 如月には、よい「母」よい「女」として自他を枠付けて行くような強い観念がある。如月は「母」として充分に魅力的だからこそ、我々は距離をおいてその業績を顧る必要がありはしないか。
 たとえば彼女のワークショップ記録は暖かく子供もいきいきと描かれる。しかし男の子ばかりが目立ってユニークに登場するのはなぜだろう。U君やA君はいても、少女は苗字を呼捨てに、あるいは数人のまとまりで書かれている。
 また、如月小春はよい聞き手であるといわれる。自身も話すより聞くほうが好みと書き、唯一の小説の女性主人公は悩み事の「聞き屋」であった。しかし、女には作曲は無理だと言われて断念し、また女優よりも音響で演劇を始めたと繰返し説明する如月に、聞く行為は、男性性の記号でもある。如月の聞く対象が音楽から言葉に代ると、我々も自然と「母性」を感じるのではないだろうか。
 如月のなかには、もう一人の私、どやしつけるメイドがいた。メイドの言葉は、如月は殆ど聞く耳をもたなかった。如月の心にいた飲酒し盗みを働く女達を、我々は忘れるべきではない。
 


.参考文献
『如月小春精選戯曲集』新宿書房、01年
『如月小春は広場だった』新宿書房、01年 講演記録
『工場物語』新宿書房、83年
『NIPPON●CHA!・CHA!・CHA!』新宿書房、88年

『はな子さん、いってらっしゃい』晶文社、84年
『はな子さんの文学探検』集英社、88年 伊藤比呂美、木野花
『もう一人の、私』海竜社、95年 ヴェイユ、学生時代

斎藤学『カナリアの歌』どうぶつ社、91年 伊藤比呂美
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ力の寓話』青土社、2000年

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