Territory

作・演出  木村真悟

2001.11
「Territory」 
フィジカルシアター
フェスティバル
参加作品

出演

林崎千恵 真篠剛  佐久間繁樹
星野和香子 西原麻世

2002.03
「Territory」
in storehouse
出演

林崎千恵 真篠剛 佐久間繁樹
星野和香子 西原麻世 村山奈月

出演

真篠剛 星野和香子 佐久間繁樹
村山奈月 垣内友香里 細田和宏

出演

真篠剛 星野和香子 佐久間繁樹
村山奈月 垣内友香里 細田和宏
羅國文  陳麗玲 
陳淑真

2003.03
「TerritoryU」
in storehouse

出演

真篠剛 星野和香子 佐久間繁樹
村山奈月 李建隆

 


 9月12日
(2002年3月公演「Territory」パンフレットより)

 昨年の9月12日、僕は佐久間の部屋にいた。佐久間の部屋は驚くほど汚かった。小さなキッチンには、食べかけのカップラーメンが腐りかけて異臭を放っていた。握りつぶされたコカコーラの缶があちこちに散乱している。酒が飲めないはずなのにビールの空き缶が転がっている。
  これは相当に酷い。
 本当に、そう思った。
 佐久間の部屋は荒れていた。驚くほどすさんでいた。
佐久間が稽古を休み始めてから、すでに10日が過ぎようとしていた。稽古は11月に行なわれるフィジカルシアターフェスティバルのための稽古である。フェスのホスト劇団である僕たちは、そのフェスのための新作、「Territory」の稽古の真っ最中だった。
  俳優に限らず、人は悩む。悩むと人は周りが見えなくなる。自分の殻に閉じこもる。俳優もそれはまったく同じである。悩んだ俳優は閉じこもる。観客の前に立つ勇気を失ってしまう。いったい何を悩んでいるかなんて問題ではない。悩んでいる人間には、自分が何を悩んでいるのかさえもわからない。
  9月10日、佐久間と入団が同期の星野と、1年先輩の真篠が、佐久間の部屋を訪れている。星野と真篠の声を聞いた佐久間は窓から逃げた。二人がドアを開けたときには、部屋はすでにもぬけの空だったという。  
  そのことを聞いた僕は、決断を迫られた。  
  あたりまえのようだが演劇は一人ではできない。俳優一人が劇団をやめるやめないは、理屈ではなく大変なことである。もちろんそうでない演劇もあるに違いない。俳優が誰であろうと作品には何の影響も及ぼさない演劇もあるにはあるのだ。  
  僕は佐久間の自殺まで心配して佐久間の部屋を訪れた、星野と真篠のためにも佐久間がすでに観客の前に立てるからだではないことを確かめる必要があった。そうでなければ佐久間は死にながら僕たちの間では生き続けてしまう。あるいは生きながら死に続ける。
  死んだ人間は完全に死ななければならない。
  僕はそのことだけのために佐久間の部屋にいた。
  佐久間が芝居を続けようが続けまいがどうでもよかった。  
  佐久間の部屋のテレビは砂嵐だった。僕の突然の闖入に驚いた佐久間がチャンネルを切り損ねたまま、シャーシャーと唸り声を上げている。  
  買ってからもしかしたら一回も洗っていないと思われる汚いコップに注がれたウオッカを飲みながら、僕たちの間には重い沈黙が続いた。  
  沈黙に耐え切れなくなった僕は、チャンネルぐらい変えろよ、と重くつぶやく。  
  佐久間はリモコンのボタンを押す。  
  いきなり僕たちの前に飛び込んできた風景は、すさまじい光景だった。  
  僕はその時初めて、その風景を見た。おそらく佐久間も同じだったのかもしれない。
  僕たちはその風景に言葉を失った。
  その後、どのくらい時間がたったのか、またどういうタイミングで佐久間が、「おれはこんなところで何をしているんでしょうね」といったのかはよく覚えていない。  
  おそらく日付は変わって、13日になっていたことは確かだ。
  いつのまにか、稽古場で酔っ払っていたはずの星野と真篠が合流していた。  
  次の日、「Territory」で使われるはずだった、ダンボール、ビニール、古着は、すべてこなごなに壊されて、ゴミの山になった。  
  今再びそのゴミの山に僕たちは突入しようとしている。

木村 真悟

 

 

「Territory」上演に向けて  木村 真悟  
(ストアハウスニュースより)

 痛ましい事件が相次ぐ。  
 ニュ−ス番組のアナウンサ−は悲痛な面持ちでニュ−ス原稿を読み続ける。隣に座っているキャスタ−は、深刻な顔でテレビカメラを見つめている。 コメンテ−タ−は、抑制のきいた声で語り始める。
 「ここまでなる前になんとかならなかったんですかね。 人間なんだから。言葉を持っているわけでしょう。 話せばわかるってこともあるんですから」
 おそらく誰かが誰かを殺してしまったというような悲惨な事件だったと思うのだが、事件の内容よりも、
その際のコメンテ−タ−の発言が気になって仕方がない。
 「話せばわかる」  それはそうなのだと思う。
 僕達は物心がついたときから、「話せばわかる世界」の言葉を覚え、その使い方を覚え、
その感じ方を学習してきた。 そしてそのことにより、何の疑いもなく「話せばわかる世界」の存在を信じてきたのだと思う。 子供の頃など僕は、それ以外の「世界」は、空想の世界なのであって現実には存在しないものだと思っていた。
 つまり、ごく普通に考えれば、僕達は「話せばわかる」世界に住んでいる。 そしてそう考えると、彼の発言はごく普通の発言で特に何の問題もないということになる。
 だがどうしても気になって仕方がない。
 それは、「話せばわかる世界」のすぐ隣に「話してもわからない世界」が、空想でも想像でもなく、 どうしようもない現実としてあちらこちらに顔を見せているように、今の僕には思えるからだ。
 彼の発言が、意図的にか、あるいは本当にそう思っているのか
「話してもわからない世界」の存在を無視しているように思えてしょうがないのである。
 つまり「話せばわかる世界」の言葉を信じるならば事件は起きない。
事件を起こすのは、その言葉を信じない輩か、あるいはその言葉の使い方を知らない無知な人間のすることだと、
件のコメンテ−タ−は言っているような気がしてならないのだ。  
 もちろんそれは僕のうがったものの考え方で、
もっと素直に「もうちょっとなんとかならなかったのかね」といったコメンテ−タ−の愚痴として聞き流してしまう話なのかも知れない。
 「話してもわからない」世界などどこにもないと言い切ってしまうのは簡単だ。 あるいはそれは一過性の出来事で、いずれ「話せばわかる世界」が、 「話してもわからない世界」を吸収し世界はもとの安定した世界に立ち戻るに違いない、と楽観的に考えることも可能だ。
 しかし、その二つの世界を、同時に抱えて生きているのが僕達の現実でもあるのだとしたら、ことはそう簡単ではない。
 「話してもわからない世界」は、「話せばわかる世界」の言葉が通じない世界だ。
 まずは言葉が通じないその「世界」に立ってみること。 「Territory」上演に向けて、まず考えられなければならないことはそれ以外にはない。
 「Territory」は、どちらかの「世界」がどちらかの「世界」をわかりやすく翻訳し、理解しあったりするために上演されるのではない。
また、お互いの世界が共存するための共通言語を演劇を通して生み出すことも考えてはいない。
それは世界中の人がお互いのことを解りあえる言語などありえないと考えるからだ。
 「Territory」は、あくまで、僕達自身が考える現実に向かい合うためだけに、上演されるのである。  
もちろんその結果、僕達の現実を切り裂く鋭い言葉を発見するであろうという希望は捨ててはならないということは、言うまでもない。