頭寒足熱'97

1997.1.25

新年あけましておめでとうございます
ところで、大晦日の夜、紅白歌合戦も終わって、全国津々浦々のお寺から聞こえる除夜の鐘でも聞きながら、眠ろうかと思っていたら、近所のお寺から鐘の音が聞こえてきたので、行ってみると、どうぞお撞きください、と若い坊主が言うので撞いてみたのだが、あまり強く撞きすぎてしまったのか、頭の中が「ゴーン」という鐘の音で一杯になってしまい、それ以来、耳鳴りが続いている。
医者に行って調べてもらったのだが、白髪混じりの口髭をたくわえて、少し腹の突き出たその医者は、別に鼓膜が破れているわけじゃないし、これといって原因は見当たりませんがね、と短い首をひねるばかりだ。
さてどうしたものかと、問題のお寺を訪ね、こういう話は若い坊主じゃ埒があかぬ、やはり寺の責任者は住職なのだからと、まん丸顔のほっぺたがりんごのように赤い住職に事情を説明したところ、それはやはり体質の問題でしょうな、と人の良さそうなその住職は静かに言う。
「まあ、大晦日の夜ともなると、百八つもの煩悩が、あちこち跳び回っているわけなのですが、まれにはその煩悩をその煩悩を一手に引き受けてしまう体質の方もいることはいるらしいんですが、しかしまあ、あなたの場合は、狐か狸にばかされたんでしょうな。うちはごらんのとおり末寺でございますから、鐘もございませんし、この寺には私一人っきりでございますから」
確かに境内に鐘はなかった。
してみると、やはり僕は狐か狸にばかされたのだろうか、それにしてもこの耳鳴りはなんだろう。耳鳴りは今も続いているのだ。
まん丸顔の赤いほっぺたの住職は、にっこりと笑っている。
ばかされたとしても、撞きもしなかった鐘の音で、人様の煩悩を引き受けてしまう体質もはたしてあるのでしょうかと、さらにしつこく喰い下がると、住職は鋭く一瞬、顔を引き締め、短く一言。
「願をかけることです」
さすが末寺といえども、寺の住職、説得力のある言葉に思わずうなずき、それ以来、「耳鳴りがおさまりますように」だけではいささか恥ずかしく、何かもっと積極的な「願」をかけるべく悩み続けているのだが、何はともあれ、皆様、本年もどうぞ、よろしくお願い申しあげます。

1997.5

それにしても前園ですよね。
と、子供の頃からのサッカーファンを自称するM君がいささか興奮気味にまくし立てる。彼は最近の前園の行動が目に余るというのだ。
それはね、勝手ですよ、練習の後か、試合の後か知りませんがね、アイツがコインランドリーで洗濯をしようが、友達と河原で遊ぼうが、ラーメン屋で飯を食おうが、それはまあ人間なんですから、いろいろありますよ、別にサッカーだけやってればいいってそういうことじゃないんですけどね。
どうもM君は前園出演のCMの話をしているらしい。
だからね、サッカー選手にも日常があるなんていう、そんなこと言ってどうするんですかって事ですよ。
そうかそういう見方もあるんだなと、M君の勢いに思わずうなづいてしまう。
例えばですよ、アイツにパスを出そうとした時にね、思い出しちゃったらどうするんですか。だからですよ、アイツ、ラーメン屋でピーちゃんがどうしたこうしたなんて叔母さんとしゃべったりしてるじゃないですか、そんな事、思い出しちゃったら、もうパスなんか出せませんよ。
ピーちゃんとはPHSのことらしい。
そりゃ、だから降ろされて当然ですよ、加茂監督は間違っていないと思いますよ。
つい先日行われたワールドカップ予選オマーンラウンドには、前園選手は出場することができなかった。
何もね、CMに出ちゃいけないってわけじゃないんですよ、ただね、同じ出るにしてもね、カズの方がね、やっぱり違いますよカズは、だってほとんどサッカーのことしか知らないサッカー馬鹿って感じじゃないですか、カズの場合。でもね、実際はその方がパス出しやすいと思うんですよ。一人のシュートはみんなのシュート。なかなかいえるもんじゃありませんよ。あの台詞、けっこう泣けちゃうな僕。
カズとはもちろん三浦和良選手の事であり、彼は最近、清涼飲料水のCMに出演している。
決定的なのはあれですよ、ホラあったじゃないですか、前園がペナルティエリアの中で、PKもらおうと思ってわざと倒れて、外国の審判に、イエローカードもらっちゃったじゃないですか。あれなんかだめですよ、絶対。絶対許しちゃいけないですよ、ああいうことは。
M君はかなり本気だ。
要するに芝居が下手なんですよ、アイツは。体格的にね、自分が他の選手に劣っているっていうことを前提に芝居したってね、そりゃ審判だって、文句いいたくなっちゃいますよ。
M君の話は、いつしか演技論、俳優論になってしまった。M君の職業はもちろん俳優である。M君の話はまだまだ続く。

1997.6.28

仕事がら、週に三本は芝居を見る。
先日、都内の某劇場で芝居を見ていたら、隣に座っていた男にいきなり話しかけられてしまった。
この芝居、おもしろいですか。
意表をつかれた僕はなんと答えていいのかわからずに黙っていると、その男はさらに続ける。
今日、ここに集まっている人たちって、ほとんど身内でしょう。
それはそうかも知れないなとあたりを見回すと、男はほとんど独り言のようにしゃべり始めた。
だからあれですよね、もっと身内を意識したほうがいいですよね。思いっきり笑わせるとか、泣かせるとか、怒らせるとかね。しょせん身内なんですから。
何を言ってるんだこの男は。
身内を笑わせたり、泣かせたりするのって結構、難しいと思うんですよ。それがあんな風に、ここにいる僕達のことをまるで初めから他人だったように、遠くで芝居されてもね。
いつのまにか、男は僕を友達にしてしまっていた。
俳優は、観客に見られていない振りをしているじゃないですか。それはわかりますよ、この芝居では、物語の登場人物を演じているわけですからね、俳優は。直接観客に語りかけたらやっぱり変ですからね。でも絶対見られているわけですからね、誰に見られているのかということははっきりさせるべきだと思うんですよ。神様が見ているわけじゃないんだから、今日ここに集まっている身内に見られているわけなんだから。身内の観客の欲望にね、きちんと答えるべきだと思うんですよ。
それはそうだ。
神様に見せているのかな、あの人たちは。だからね、しょせん身内にはわかってもらえないことを前提に、芝居をしているように見えちゃうんですよ。
確かに、俳優の熱演とは裏腹に、舞台と客席にはなんかしっくりしない溝ができているような気がした。
逆だと思うんですよ。しょせん身内なんだから、初めから距離なんか、ほとんどないんですから、そのことを承知の上でもっと近づこうとかね、そうじゃなかったら、思い切って離れてしまおうとかね、そこまでしてくれたらいくら身内でも、いや身内だからこそ、芝居がおもしろかったとか、おもしろくなかったということじゃなくてね、芝居を見たなって気がすると思うんですよ、僕は。
男は、それからも、ほとんど一人でしゃべり続け、芝居が終わると、何事もなかったように立ち去ってしまったのだが、それ以来、そうか、僕も「身内」だったんだとあらためて思い直し、「芝居」にとって「身内」とは何か考え続けている。

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