頭寒足熱'96

1996.2.28

 先日、友人 のIが「今年はどんな芝居が流行るんだろうね」と言うので、そんなことわかるわけがないじゃないかと思いながら「まあ最近は健康ブームだからね」とかなんとか言いながら、お茶を濁そうとしたら、「でもさ小屋を経営している以上、流行には敏感でなければいけないんじゃないの。少なくとも商売をしているわけなんだから」とかなんとか言うので、「だから、健康だよ、健康!」、と思わず大声をだしてしまった。
ともかく大変な健康ブームである。猫も杓子も、無農薬野菜に、有機農法、低カロリーに低コレステロール、最近、ジョギングはやや下火になったとはいえ、エステにエアロビ、新しいところではダンベル体操と、日本国中、「健康、健康」の大合唱である。芝居にしたところで、「風邪によく効く演劇」とか「熱さましがわりに、この芝居」とか、「精力減退に演劇はいかがでしょうか」とか誰かが言い始めてもよさそうなもんだがいまだにそんな声は聞いたことがない。してみると演劇は取り立てて「健康」を志向しているわけでは無いのかも知れないなどと思いながらも、言い始めた以上仕方がない、なんとか今年の芝居の流行は「健康」である。つまり観客は「健康」になるべく劇場に足を運ぶのである、といったところで話を落ち着けなければならないが、さてどうしたものかと思案していると、思いがけずにIが言う。
「そうだよね、癒しのあとは、健康かも知れないね」
何を言ってやがるんだこいつは、と思いながらも、なるほど思い当たる節がないわけではない。「癒しの演劇」や「健康ブーム」にしたところで、背後には我々自身の「もしかしたら、今、俺は健康ではないのかも知れない」というかすかな自覚や「なんとなく何かをしていなくてはならない」居心地の悪さがあるに違いない。
してみれば、「今年の芝居の流行はなんですか」と問われて、それはもちろん「健康ですよ」と答えるのもまんざら的はずれということもないのかもしれない。
「癒しの演劇」と言ったところで、どんな「芝居」が、あるいは「演劇」が「癒し」なのかはっきりとはわからぬままに、すべて、「しずかな演劇」に一言でひっくるめられてしましそうな感がある今日この頃、まさか、「健康」を支えるのは、「うるさい芝居」ではあるまいから、ここはひとつ、乗りかかった船でもあることだし、流行に乗り遅れるのは承知の上で、じっくりと、「健康」と「演劇」でも考えてみるかと思っていると、遠くをみつめながら、Iが言う。
「でもさ、宮沢りえはどうなるのだろう」
「アン」とこちらがこちらが口をさしはさむまもなく、Iは、最近の拒食、過食の原因から、その治療法にいたるまで、とどまることをしらない勢いではなし始める。
これだから「健康」は難しい。

1996.4.15

ご存じの通り、映画「Shall we ダンス」の撮影は、ストアハウスで行われた。パンフレットに、撮影は江古田駅であると載ってしまったため、最近は朝早くから、ひっきりなしに若いアベックやら、中年の御婦人、まるで映画には縁がなさそうに見える初老の紳士まで訪れて、今や、ストアハウスはすっかり観光名所になってしまった。
観光客たちは口をそろえて「ここに、岸川ダンス教室があったんですね」と尋ねる。そして、観光客たちの目は一様に潤んでいる。
したがって、「もともと在ったのはストアハウスで、岸川ダンス教室は、撮影のための4日間だけなんですから」なんて事は、口が裂けても、言えるような雰囲気ではない。仕方がないので、僕は申し訳なさそうに、「ええ、そうなんですけどね」とつぶやくことにしている。
それにしても映画の力は恐ろしい。
たかが撮影に使われただけの場所に、よくもこんなに人が押し寄せるもんだと感心していたら、今日も一人若い女の子がやって来た。
手には花束をもっている。
しかし、彼女にしたところで観光客の1人である。ここのところ、ほとんど儀式的にさえなってきた、決まり文句を繰り返す。
「ここに岸川ダンス教室が在ったんですね。」
「ええ。」
その後、たいていの観光客は、あたりをあちこち見回しながら、名残惜しそうに「どうも失礼しました」とか何とか言って立ち去るのだが、彼女は突然、花を飾らせてくれないかと言い出した。
もちろん僕にしたところで、彼女の持っている花束が最初から気になってはいたのだから、ああ、ここに飾るために持ってきたんだな、と妙に納得してしまい、たまたま空いていた花瓶を差し出すと、彼女はいっぽんいっぽんていねいに花瓶に花を差し始め、差し終わると、「どうもありがとうございました」と誰に言うでもなくお辞儀をすると、どこを見て良いのかわからなくなってしまっている僕の方を振り返り、にっこり笑うと、何事もなかったようにして、帰ってしまった。
僕は、今になっても、何か大事なことを聞き忘れたような気がしてしょうがないのだが、何を聞きたかったのかどうしても思いつかない。
やはりこれも、映画の力のひとつかもしれない。

1996.9.20

情報化時代である。乗り遅れてはいけない。せっせ、せっせと情報をかき集める毎日である。
しかし、あまりにたくさんの情報をかき集めてしまった結果、何が本当に必要な情報だったのかわからなくなってしまった。いまや本当に必要な情報を見つけるための情報を探している始末である。だがこんなことぐらいで諦めてはいけない。なにしろ21世紀はインターネットの時代なのだ。一部では買物もすでにインターネットを通じておこなわれているらしいではないか。そのうち仕事だってほとんど在宅のままインターネットでできてしまうらしいい。
さあ大変だ。今のうちにパソコン買って勉強しなくっちゃ。でもまにあうかしら。あらあなた、そんなこと考えている場合じゃございませんよと妻の声。そうだ、そうだとさっそく秋葉原にでかけて、一番やすいパソコンくださいと大声を張り上げてしまった。
ところで情報にはデジタル化できる情報とどうしてもデジタル化できない情報があるらしい。デジタル化できる情報とは、いわゆるパソコン通信等で得られる言語化できる情報である。それに対してそれに対してデジタル化できない情報とは、小鳥のさえずりとか川のせせらぎの音とか、あるいは波の音であるとか、砂浜を歩く時に聞こえるキュ、キュという砂の音であったり、潮の匂いだったりするのだろう。
この二つの情報は、人間にとってとても大切なものである。どちらかを大事にしすぎたり、片方を一方的に蔑んだりするようなことはしてはならない。つまりえこひいきはしてはいけないのだそうだ。
そう考えると、インターネットの時代に時を同じくして、異常なまでのアウトドアブームもなるほどとうなずけるものがある。やはりバランス感覚を失ってはいけない。一輪車に乗ることは諦めるとしても、せめて自転車ぐらいは転ばずに乗り続けていたいものである。さて問題は演劇である。
演劇を情報として考えてみた時、演劇はデジタル化できる情報なのだろうか。それともできない情報なのだろうか。
そして今、演劇はどういう情報になろうとしているのだろうか。
もちろん演劇にしたところでどちらか一方に片寄り過ぎてはいけないのだろうし、演劇には演劇なりのバランス感覚があるのだろうから、なかなかはっきりとは答えてくれそうにはないことは承知の上なのだが‥
秋葉原でずらりと並んだパソコンを眺めながら、かなりの時間そんなことを考えていたら、あきれはてた店員がいなくなってしまったので、ついにその日はパソコンを買うことができずに帰ってきてしまったのだが、今度こそは絶対にしくじらずにパソコンを購入せねばならないと固く拳を握りしめている今日この頃である。

1996.11.15

「なんと言っても芝居をみる楽しみは、舞台の上の様々な顔をみることにある」と最近、小屋を訪ねてきたA氏が言うので、話しだすときりがないA氏の話がこれ以上長くなっても困るので「そうですね、芝居はやっぱり顔ですね」と適当に相槌を打っていると、案の定、彼はそれから2時間もの間、舞台表現における顔の役割について、滔々としゃべり続け、「だからね、結局のところ、顔がおもしくない芝居はつまらないわけだよ」となんだかわかったようなわからないような言葉を置き土産に、いつものように出されたお茶に口をつけることもなく、彼は立ち去ったのだが、それ以来顔のことが気になってしょうがない。
A氏に言わせると、俳優の顔を人間の顔だと思ってはいけないのだそうだ。とりあえず、人間ではないと思ってみるだけで、俳優の顔は今までみたこともない新鮮なものとしてみえてくるはずであると彼は断言する。
あくる日、A氏に騙されるのも悪くないと思っていたわけでもないのだが、「人間じゃない、人間じゃない」とくりかえすかれのことばを忘れることができないまま芝居をみていると、俳優の顔が白熊にみえてきたり、チューリップにみえてきたりしてきたから不思議なものだ。
「その時、俳優の声が獣の叫び声に聞こえたり、あるいは木々の間を通りぬける風の音にでも聞こえてきたらしめたものであります。その瞬間、あなたは舞台の上に、人間の顔ではない、もう一つ別の顔を発見することになるでしょう。」と、いささか興奮ぎみに語ったA氏の言葉を思い出しながら、白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスにみえてきた俳優の顔をさらに見続けたのだが、白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスは、いつまでたっても白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスのままで、それ以上、どんな顔にも変わりはせずに、もしかしたら、彼の言っていたもう一つ別の顔とは、白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスのことだったのか、と、あらためて白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスの事を考えていたら、いつのまにか芝居は終わってしまっていた。
僕はまだまだ修行が足りないに違いない。  A氏のように、俳優の顔に人間の顔ではないもう一つ別の顔を発見する域にまで達するまでには、なかなか、時間がかかりそうである。
しかし、とりあえずは、俳優の顔が白熊やチューリップやゴリラやヒヤシンスに見えただけでも今日のところはよしとしようではないかと、その日は劇場を後にしたのだったが、どうしたことか、A氏の顔をすっかり忘れてしまっていることに気がついて、唖然としてしまった。
A氏の職業は占い師である。銀座で手相を見ながら、注意深く人間の顔を見続けている彼のもとを一度は訪ねてみなければなるまいと考えている今日この頃である。

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