新・俳優教室開催にあたってーその1ー

2013年3月16日

 俳優のことを考えることはやっかいだ。本当にやっかいだ。

 演劇に関わり始めて30年以上が経つのだが、いまだに俳優のことがわからない。本当にわからない。が、わからないからといって決して嫌いなわけではない。どちらかといえば、好きなほうだと思っている。恥ずかしながら、舞台の上の俳優に向かって、大声で大好きですと叫びたい衝動に駆られることだってあることはあるのだ。しかしその声は決して俳優の耳には届きはしない。届いたところで、彼にしたって、わたしごときに好かれるために舞台に立っているわけではない。わたしだって、とりあえずは55年も生きてきたのだ。愛憎という日本語の意味ぐらい知っている。

 いや、そうではない。問題なのは、好きか嫌いかではなく、わかるか、わからないか、なのである。俳優のことは本当にわからない。そうだとしたら、お前は、俳優のことをわからないのに、さもわかったような顔をして、演劇を続けているのかと言われれば、それはそうなんです、と土下座をして謝りたい気持ちも山々のだが、田舎の両親から、人間、軽々しく土下座なんかするものではないと、きつく言われて育ってきたこともあり、そういう場合には、それじゃ、ちょっとお伺いしますが、そういうあなたは、人間のことがわかっているのですか、わたしたちにしたところで、人間のことがわからないのに人間をやっているじゃないですか、演劇だって同じです。わたしは、俳優のことがわからないのに演劇を続けているのです。と答えることにしていたのだが、最近はちょっと反省している。わたしはもっとはっきりと答えるべきだったのだ、ということに気がついた。

 たとえば、
「わたしは、わからない俳優のことが知りたいからこそ演劇を続けているのです。」
と。

 しかし、そうはいっても、考えれば考えるほど俳優のことがわからなくなる。本当に俳優はやっかいだ。

 たとえば、何故、俳優は、他人が書いた言葉を覚えるのだろう。

 長い付き合いあり、また尊敬する某俳優とそんな話をしていたら、何も好き好んで人の書いた台詞を覚えているんじゃないと、酒の席ですごまれたことがある。つまり、彼が言いたいのは、覚えないことには芝居が始まらないじゃないかということなのだが、それはそうなのである。わたしにしたところで、俳優が好き勝手に自分の言葉をしゃべり、自由気ままに動いている芝居には興味がない。最近はずいぶん鼻が利くようになってきたので、めったにそういう芝居に出くわすことがなくなってきたのだが、昔は(いったいいつの昔だ)ひどい目にあったことがある。本人たちは自由を気取っているのだが、少しも自由ではないのだ。作家の書いた言葉を覚えるのではなく、その場でいわゆるアドリブでしゃべっているように見せることを練習しているものだから、決められた台詞を覚える以上に、アドリブをしっかり覚えてしまっているのだ。しかもさらに悪いことには、本人はまったくそのことに気がついていないことが多い。そんなことなら、台本をしっかりと手に持って書かれた文字を必死に声に出したほうがよっぽどましだ。演劇にはリーディングという形式があるではないか。しかしそのリーディングにしたところで、この頃は、せっかく持った台本の文字に目を向けることもなくさも覚えた振りをしている俳優の姿を目にすることが多いので、なかなかことは面倒だ。

 芝居に限らず、僕は自由ですと気取っている奴と話をすることぐらい退屈なことはない。たいていの場合そういう人は人の話に興味がない。そのくせ妙に相槌合を打ったりするから始末が悪い。

 俳優である彼は続ける。

「結局、覚えないと始まらないんだけど、覚えると終わっちゃたりするんだよね。しっかり入っていないときに限って、演出にいいって言われたりもするし、客の受けもいいときもあるし、まあ自分で理解できる範囲で覚えたときはまずだめだよね。」

 何だ、理解できる範囲とは。

 

 もしかすると、彼は、理解できない範囲で覚えるということを言っているのか。え、何。理解の外側で記憶する。

 なんだかわかるような気もするが、はっきりとはわからない。そういえばわかったような顔をした俳優が、やたらいい声で台詞を言っていたりするとむしょうに腹が立つ。そんなことかと思ったりしていると、彼は続けて言うのだった。

 「結局、字を読んでいるんだよね、俺たちは。だけどさ、知らない文字は覚えやすいんだけど、知っている文字は覚えにくいんだよね。つまりさ、なまじ知ってるつもりになるとどこかなめちゃうってことあるじゃない。ま、それは、字に限ったことじゃないけどね。」

 ますますわからない。そもそもこんな言い方をする人間がわからない。人間がわからないのに、人間の営みであるはずの俳優の存在などわかるはずがないのだ。しかし、そう言ってしまっては身も蓋もない。いったい何のための俳優教室なのかわからなくなってしまう。

 そこで、
「この俳優教室は、わからない俳優のことを考えるための道場なのだ。」
と宣言してみることにする。

 するとおぼろげながら、道場ですべき事柄が見えてくる。
ような、気がする。

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