なぜか田圃に入るという話になった。俳優教室のあとの雑談の席のことである。雑談といてもただの雑談ではない。ほとんどの場合、俳優教室でのさまざまなレッスンは、その後の雑談のために行われていることがほとんどだからである。
ところで、何故田圃の話になったのかといえば、参加している某芸術大学で先端芸術を学んでいるS君の実家が茨城で農業をやっているからなのだが、結局のところ頭でいくら農業のことを考えていても、始まれないのではないかということをいいたかったのである。田圃もひとつの虚構の世界であるとするならば、その世界にまず入ってみることそこからしか演技の問題は語れないのではないかということなのである。
田圃に足を入れる。足の裏に、泥を感じる。いやそうではなく、泥のなかに包まれている足を発見する。いやそうではない。発見はコロンブスだ。足は私に発見される前からそこにあったのだ。タニシが親指とひとさし指の間をつるんとすべる。タニシが私の指をドジョウと間違えて噛み付いてしまう。間違えられたことに気がつかない私は、何故バランスを失ったのかわからないままに、転ぶこともできずに田圃の中で、草をむしってしまうのである。
おそらく演技とはそういうものであり、そんな体験や想像力からしかカルガモ農法は生まれないのではないかとそういう話になってしまったのである。
ちなみに彼の実家は、アイガモ農法をやっていたのだが、つい最近鴨がイタチによって食われてしまったので、人力によって除草作業を行っているとのことである。
しかし問題は、田圃の話なのではなく、「アイ・コンタクト・ゲーム」の話の続きなのだ。
「眼球接触試合」。
何か物々しい名前のレッスンなのだが、われわれは視線を感じることができる。
われわれは他者の視線を感じることができる。
そして視線は暖かかったり、冷たかったりする。また重かったり軽かったりする。
つまり、視線は物質である。そして視線は眼球から放たれる。
視線を合わせえる。眼は口ほどにものを言う眼球が、私に迫ってくる。眼に入れても痛くない私が私に迫ってくる。
田圃は、そのように行われた「眼球接触試合」のあとに出てきた話である。
茨城出身の某芸術大学で、先端芸術を学び、実家が農業を営んでいるS君は、突然目を輝かせながら、今度実家に帰ったら、とりあえず目の中に田圃を入れてみますというのだが、いやそうではなく、田圃のなかの目を探してその中に君が入るべきだと答えたのだが、それがどういうことなのかよくわからない。
やはり、とりあえず田圃の中に入ってみるしかないのかもしれない。
そんなこんなの、「眼球接触試合」。