俳優教室開催にあたって ―その3―

2010年8月6日

 俳優はいったい誰に見られているのか

 言うまでもないことだが、俳優は舞台に立っている。そして観客はそのことを見ている。したがって、俳優はいったい誰に見られているのかというと、観客に見られているということになる。

 だが不思議なことなのだが、たいていの場合、俳優は観客に見られていない振りをする。

 それは、なぜか。

 多少、演劇を教養として習ったことがある人ならば、第4の壁の存在としてそのことを説明するのかもしれない。

 それはつまり、近代劇の場合(俳優が、自然主義的な演技を行っている場合ということである)舞台と客席の間には見えざる壁があり、その壁越しに、観客は舞台を覗いているのであり、俳優はその見えざる壁の存在を意識しないように演技をしなければならないということである。

 しかし、私の言いたいのは第4の壁のことではない。俳優が自然主義的な演技を行っていない場合、たとえば、日本における能や歌舞伎のような演劇においても、俳優は、観客に見られていない振りをする。いやそうではなく、振りではなく、見られてさえいないのだ。時には、俳優は、観客の覗き見的な態度を拒否したりさえする。

 俳優は、劇場で観客席に座っている観客が存在するということを前提に、演技を行うのだが、そこにいる観客ではない観客を相手に、演技する存在である。そこにいる観客ではない観客とは、俳優の想像力の中に存在する観客である。

 私の体験で言えば、いわゆるいい芝居とは、面白かった芝居とは、客席に座っていて、舞台が望んでいる観客に自分自身がなろうなろうと努力しているときである。

 また面白くない芝居、あるいは無性に腹が立つ芝居とは、客席に座っている私が馬鹿にされているように感じるときである。言葉を変えると、私自身の想像力を決め付けられてしまったときである。芝居に限らず人とけんかをするときはたいていそうであるのだが、そんな時私はどうしても叫びたくなってしまうのである。俺を見くびるな。わかったような口を利くな。俺は俺自身がわからないのだ。わからない俺をどうしてお前はわかったというのだ。

 つまり、観客としての私は、客席に座りながら、観客になろうとしているのだ。

 観客は、単なる覗きに満足しているわけではないのである。

 俳優は、その場にはいない、不在の、あるいは非在の観客に見られているのである。

 そのような観客は、俳優の想像力をきっかけに生まれるのだ。

 そしてその時、劇場は、その劇場を取り囲む他者の視線を手に入れることができるのである。

ページのトップへ戻る