Remains 演出ノート1 「役について」

04/10月

 Remainsには、いわゆる一般的な演劇においていわれている「役」がありません。
 私たちが生きている空間には様々な役があります。たとえばそれは、父親、母親、祖父母、兄弟、夫、妻、子供、友人、知人、同僚、上司、部下、先輩、後輩と呼ばれたりします。
 しかし、Remainsにはそれらの役割も役名もありません。
 Remainsは、いっさいの「役」を放棄した空間です。あるいは、奪われた場所です。
 私たち人間は、社会的な動物であるといわれたりします。社会的な動物であるということは、社会的な自己を持っているということです。社会的な自己とは、社会の中での役割を引き受けることが出来る自己ということです。
 Remainsは、社会的な動物といわれる人間像を疑っています。
 Remainsは、そこに生きる人たちに、ただひたすら動物であれと囁き続けます。
 動物であろうとする人間には、社会的な自己が自分自身に強要する身振りや表情は必要ありません。動物的人間にとって必要なのは、個性ではなく個体差です。それは頭髪である、頬骨であり、肋骨であり、背骨で あり、股関節であり、陰毛であり、性器であり、それらを包み、あるいは支える、筋肉の違いです。
 私たちは、社会的な自己における身振りや表情を個性だと思って生きています。Remainsそのことを強く疑っています。
 私たちは、社会的な自己、つまり個性は自らが勝ち取ったものだと錯覚しています。しかし個性とは、社会が(国家や、民族、様々な共同体)個体を管理しやすくするために発明した概念にすぎないことをRemainsは知っています。政治家がテレビの前で国民の皆さんと呼びかけるときの胡散臭さはそこにあります。
 まるで国民一人ひとりに個性があるかのように語りかけながら、その実、彼らは税金を黙って払ってくれる従順な羊な様な国民しか欲していない。つまり個性とは、人間を家畜化し搾取していることを悟られないための隠れ蓑でもあるのです。
 また、Remainsは演出家が、俳優の個性を尊重して作品を作っているというような身振りも拒否します。俳優一人ひとりの個性を尊重するという演出家のほとんどが、政治家と同じように俳優を家畜化することを望んでいるということをRemainsはよく知っています。
 Remainsは、役を放棄し、あるいは奪われ、人間を徹底的に個体としてみることを強要します。
 それは自らを家畜化してしまった人間の感覚、感情ではなく、動物としての人間の感覚、感情を感じてみたいというRemainsの欲望に他なりません。
 Remainsの虚構の水準はそこにあります。

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