痛ましい事件が相次ぐ。
ニュ-ス番組のアナウンサ-は悲痛な面持ちでニュ-ス原稿を読み続ける。隣に座っているキャスタ-は、深刻な顔でテレビカメラを見つめている。コメンテ-タ-は、抑制のきいた声で語り始める。
「ここまでなる前になんとかならなかったんですかね。人間なんだから。言葉を持っているわけでしょう。話せばわかるってこともあるんですから」
おそらく誰かが誰かを殺してしまったというような悲惨な事件だったと思うのだが、事件の内容よりも、その際のコメンテ-タ-の発言が気になって仕方がない。
「話せばわかる」
それはそうなのだと思う。
僕達は物心がついたときから、「話せばわかる世界」の言葉を覚え、その使い方を覚え、その感じ方を学習してきた。そしてそのことにより、何の疑いもなく「話せばわかる世界」の存在を信じてきたのだと思う。子供の頃など僕は、それ以外の「世界」は、空想の世界なのであって現実には存在しないものだと思っていた。
つまり、ごく普通に考えれば、僕達は「話せばわかる」世界に住んでいる。そしてそう考えると、彼の発言はごく普通の発言で特に何の問題もないということになる。
だがどうしても気になって仕方がない。
それは、「話せばわかる世界」のすぐ隣に「話してもわからない世界」が、空想でも想像でもなく、どうしようもない現実としてあちらこちらに顔を見せているように、今の僕には思えるからだ。
彼の発言が、意図的にか、あるいは本当にそう思っているのか「話してもわからない世界」の存在を無視しているように思えてしょうがないのである。
つまり「話せばわかる世界」の言葉を信じるならば事件は起きない。事件を起こすのは、その言葉を信じない輩か、あるいはその言葉の使い方を知らない無知な人間のすることだと、件のコメンテ-タ-は言っているような気がしてならないのだ。
もちろんそれは僕のうがったものの考え方で、もっと素直に「もうちょっとなんとかならなかったのかね」といったコメンテ-タ-の愚痴として聞き流してしまう話なのかも知れない。
「話してもわからない」世界などどこにもないと言い切ってしまうのは簡単だ。あるいはそれは一過性の出来事で、いずれ「話せばわかる世界」が、「話してもわからない世界」を吸収し世界はもとの安定した世界に立ち戻るに違いない、と楽観的に考えることも可能だ。
しかし、その二つの世界を、同時に抱えて生きているのが僕達の現実でもあるのだとしたら、ことはそう簡単ではない。
「話してもわからない世界」は、「話せばわかる世界」の言葉が通じない世界だ。
まずは言葉が通じないその「世界」に立ってみること。
「Territory」上演に向けて、まず考えられなければならないことはそれ以外にはない。
「Territory」は、どちらかの「世界」がどちらかの「世界」をわかりやすく翻訳し、理解しあったりするために上演されるのではない。また、お互いの世界が共存するための共通言語を造り出すことも考えてはならない。それは世界中の人がお互いのことを解りあえる言語など不可能だと考えるからだ。
「Territory」は、あくまで、僕達自身が考える現実に向かい合うためだけに、上演されるのである。
もちろんその結果、僕達の現実を切り裂く鋭い言葉を発見するであろうという希望は捨ててはならないということは、言うまでもない。