Remains

00/6月

Remainsは、声と言葉を剥奪された人々の物語です。

Remainsには、役がありません。

個々の俳優の関係意識だけが、そこには残されています。

Remainsは「歩」「転」「起」「倒」の四つの動きと
「脱」「入」という二つの行為によって
場面が、構成されています

 

役について

Remainsには、通常、演劇においていわれる「役」がない。
私たちが生きている空間には様々な役がある。たとえばそれは、父親、母親、祖父母、叔父、叔母、兄弟、姉妹、夫、妻、子供、友人、知人、同僚、上司、部下、先輩、後輩と呼ばれたりする。
Remainsにはそれらの役割も役名もない。
Remainsは、いっさいの「役」を放棄した空間である。あるいは、奪われた場所だ。
人間は、社会的な動物であるといわれたりするが、社会的な動物であるということは、社会的な自己を持っているということだ。そして私たちは、社会的な自己における身振りや表情を個性だと思って生きている。
しかしRemainsそのことを強く疑っている。
Remainsには、社会的な自己が自分自身に強要する身振
りや表情は必要ない。Remainsにとって必要なのは、個性
ではなく個体である。それは頭髪であり、頬骨であり、肋骨であり、背骨であり、股関節であり、陰毛であり、性器であり、それらを包み、あるいは支える、筋肉の違いだ。
Remainsは、そこに生きる人たちに、ただひたすら個体であれと囁き続ける。
私たちはたいていの場合、個性は自らが勝ち取ったものだと錯覚している。しかし個性とは、社会(国家や、民族、様々な共同体)が、個体を管理しやすくするために発明した概念にすぎないことをRemainsは知っている。
Remainsは、役を放棄し、あるいは奪われた人間を、徹底的に個体としてみることを強要する。
それは自らを家畜化してしまった人間の感覚、感情ではなく、個体としての人間の感覚、感情に答えてみたいというRemainsの欲望に他ならない。

S0

舞台奥に古着の山

古着の上に、黒服・黒ズボンの7人の俳優が、横たわる。

 

制服について

黒服・黒ズボンとは制服の意味である。今年で高3になる息子は都立高校に通っている。都立高校には制服がないのだが、いわゆる標準服と呼ばれるものがある。彼の通っている高校の標準服は、男子は詰襟、女子はセーラー服である。標準服はあくまで標準服であって制服ではないので、着ても着なくてもかまわないのだが、彼の高校では私服で通っている生徒の割合は10%ぐらいだという。彼は標準服といわれる詰襟で通っているのだが、そのわけを聞くと、何を着たらいいのかということを考えるのが面倒だからという。標準服で通う90%の生徒がすべて同じ理由だとは思えないが、制服=拘束、私服=自由という考え方では解決できない心理がそこには働いているのだと思う。
ところで知り合いに、制服姿の人々の集合写真を撮っているカメラマンがいる。
彼は、その集合写真の顔をはさみで切り抜き空白にしているのだが理由を聞くとどうしても顔が邪魔なのだという。彼の興味はあくまでも顔ではなく制服にあるのだということなのだろう。

S1歩―列

暗がりの中を黒服・黒ズボンがゆっくりと歩き始める

 

自分以外の誰かの後を歩いていると、7人の歩く軌跡は円になる。列とは円運動からの「脱」である。

やがて速度を上げ、列を成す7人
列への脱/入を繰り返す
繰り返しの中で生まれる
追跡
監視
捕獲
闘争
逃走

列への脱/入は更なる円運動を生み出す。
閉ざされた空間での円運動は、水槽の中の金魚の動きとほとんど同じだ。

加速する列
渦巻く列

S2歩―列の停止

列から「脱」し、「入」を拒む
視覚から消える列
死角に潜む7人
残像として残る列

基本的にこの作品は、
裸舞台を想定して作られている。
したがって、舞台上には死角はありえない。
照明は、均質な暗がりを求められている。
俳優は、個々に残っている列の残像に対して
死角を探さなければならない。

固まる7人
7個の塊

残像について

残像感は人様々だ。ある俳優は人と握手をした後の残像感が丸一日はもってしまうので、そのことが気持ち悪く、握手は大嫌いだという。またある俳優は踏み切りで電車が通り過ぎた後の残像感がとても強く、体が引きちぎられるような錯覚に襲われるため、しばらくの間、踏切を渡ることが出来ないことがあるという。
ずいぶん昔、黒いゴム長靴が舞台一面に敷き詰められている芝居を見たことがある。その黒ゴム長靴に足を入れ、引き抜きながら、黒ゴム長靴を微動だにせずに、俳優が舞台上を移動していく場面を、いまだに忘れることが出来ないのだが、彼もまた何がしかの残像に接触していたのだと思う。

S3歩―衝突

再び、歩き始める、7人の俳優
列の残像への
突入
突進
列の残像との衝突
列の破壊

列の残像は円運動である。
列の破壊は、線運動で行われる。
円に対して、線である。
しかし、完全な直線はありえない。
とすると、線もまた円である。
まして閉ざされた空間、つまり劇場においては、
壁を迂回しなければならない。
その結果、俳優の身体は、直接的に相当な遠心力を感じることになる。
遠心力との闘い、
列の残像との闘いは、
俳優の身体を極度に疲労させることになる。
また線運動は、あくまで列の残像への接触であるため、
俳優同士の身体の接触は禁止されている。
が不可避的に、俳優同士の身体は接触を欲してしまう。
おそらく我々の身体は、
不可視なものとの対話より、
現実的に視覚化出来る物との関係に流れていくということだ。
関係、つまり対話の可能性は、
この場面の場合
あくまで列の残像との闘いである。

S4歩/倒/転/起―崩落

列の残像
遠心力との闘いに疲労した
消耗しきった7人の体は、
床に、地面に「脱」する

「脱」した体は転がる、
そして、自らの体を守るために、
必然的に起き上がる。
いわゆる柔道の受身である。
または投げ技である。
その瞬間、
「脱」した体は、
再び「衝突」の場面への、
「入」を強いられる。

防御と攻撃の間に生まれる
「脱」

「入」
「脱/入」の繰り返しに中に偏在する


勝負について

2000年に行われたシドニーオリンピック柔道競技、100kg.超級に出場した篠原信一選手は決勝戦においてフランスのダビド・ドゥイエ選手に敗れた。
審判による判定は篠原選手の内股を、ドゥイエ選手がすかしたとのことであった。内股すかしである。
日本中のメディアは、誤審であると騒ぎ立てた。しかし、本当のことは、試合をしていた当人にしかわからない。柔道は投げるにしろ、絞めるにしろ、押えるにしろ、固めるにしろ相手の体を支配しなければならない。
つまり、どちらがどちらをより支配していたのか、競技の時間が5分間と規定された時間の中では本当のことはわからないということである。したがってスポーツは審判を必要とするのだが、審判にしたところで人の子である。決して神ではない。したがって誤審をする。
スポーツの限界はそこにあるのだが、演劇の可能性は逆にそこにある。観客という審判はいつも誤審しているのだ。
本当のことは、俳優にも観客にもわからない。

S5倒/転/起―記憶としての古着・帽子・靴・カバン

消耗しきった体を包み込む
柔らかい古着
汗とともに
息とともに
生理をむき出しにした体を包み込む
暖かい古着の山
他者の記憶としての古着
ただ捨てられただけの古着
行き場を失った、靴・カバン
ただのボロとしての古着の山
倒れながら、転がりながら、起き上がりながら
柔らかさへ
暖かさへ
「脱」け出る7人
衣服を「脱」ぎ、
あるいは、奪われ
記憶の中に「入」り込む7個の転がり、
7個の塊
露出する肌
偽者の肌
偽者の裸体
偽者の死体
記憶の中に「入」り込む偽者の死体
あるいは
記憶の外へ「脱」け出ようとする
偽者の死体の数々
いつの間にか
まるで初めからそこにあったように
まるで本物のように
ボロ布と同化してしまう
7個の偽者
おそらく彼らの耳には
遠くから
至近距離から
カメラのシャッター音が
機関銃のように鳴り響いている
そこには
セピア色の
ただそれだけで懐かしい
7枚の写真が
突っ立っている

この場面において、
俳優は、古着、靴、カバン、帽子と、
同化することを求められている。
同化するために、俳優は
海や、波のイメージを選択した。
つまり、この場面において俳優は、
海や、波を演じている。

記憶について

冠婚葬祭で田舎の親戚にあったりすると必ず言われるのが、小さいころと変わんないねとか、面影がのこっているとか、いついつ、何処何処へ一緒に行ったことがあるんだよといったことだ。もちろん親戚の叔父さん、叔母さんはそのぐらいのことしか共通の話題がないからそうしているわけで、別に悪気があってそうしているわけではないのだが、こちらとしては困ることも度々だ。だいたいが、覚えていないことのほうが多いのである。
そんな時には、適当に相槌を打って話をごまかしているのだが、そのうちに本当にそんなことがあったような気がしてきて怖くなってしまうこともある。叔父さん、叔母さんにしたところで、わざわざ嘘を言っても仕様がないので、おそらくそれは本当のことなのだろうから、何も怖くなる必要はないのだが、やはり何かに怯えてしまう自分がそこにはいる。
それは何かを奪われてしまう恐怖感とよく似ているような気がする。
そして、おそらくは、奪われてしまう何かとは、身体に違いない。

S6倒/転/起/歩―壊れる記憶

セピア色の
ただそれだけで懐かしい
記念写真
記念写真から「脱」け出ようとする
7人の偽者
他人の記念写真に
「入」り込もうとする
7人の偽者
引きちぎられる記念写真
運び込まれ
運び出され
よじられ
ねじられ
ひっかかれ
粉々に砕け散った
無数の写真
ボロの上には、
7個の
偽者の死体が横たわる

われわれは、いつだって関わりを求めている。
関わりは、愛と呼ばれたり、
暴力と呼ばれたりする。
この場面において
俳優は絶えず標的を探し出さなければならない。
標的を探し出し、
拉致し、拘束し、運び出そうとする。
執拗に、互いが互いに、
干渉しあうことが要求されている。

S7歩/顔

顔を隠す7人の偽者
顔を隠された7人の偽者
つながった頭
緊張する頭
緩む頭
弛緩する顔
膨張する顔
無名の
匿名の
7個の

7人は、順々に古着の中の
パンティストッキングへ頭を入れていく。
順番は決められている。
この順番は役ではなく、
この7人という集団が抱えてしまった、
階級である。

顔について

自分の顔は、自分には見えない。自分の顔はまず他人に読まれ、自分の顔を読む他人の顔を手がかりにして、自分の顔をかろうじて想像することができる。
つまりわれわれは、お互いに自分の顔を相手に見せ合うことで、関係の中に入っていく。したがって顔を隠すということは関係の拒否である。あるいは、そこは関係を必要としない場所であるということだ。
それは家族の関係によく似ている。お互いに顔を読み合う必要がない世界、ただぼんやりとした役割だけがそこにはある。
その場所は、優しさに包まれた、日本の平和とでも名づけてしまいそうな欲求にかられてしまう、親和的な世界である。

S8歩―皮膚

歩くことをやめ
偽物の皮膚に「入」り込み
偽物の皮膚から「脱」け出ようとする
偽物の7人
引きちぎられた偽物の皮膚
露出する本物の皮膚
露出する本物のような偽物の皮膚
露出する本物のような偽物の裸体
本物と、偽者の
境目を探しあう
7人の、偽者

皮膚について

この作品を作り始めてから、やたらとパンティストッキングが気になる。
それは舞台上で、パンティストッキングを使っているからあたりまえといえばあたりまえなのかもしれないが、つい先日、ものすごいパンティストッキングを目撃してしまった。
物干し竿に7足のパンティストッキングがぶら下がっているのだ。一瞬、自分が何を見ているのかがわからなくなった。正直言って、胴体から切断された下半身かと思ってしまった。
聞くところによるとパンティストッキングは、ネットに入れて、丸めて干すらしいので、やはりその光景は普通ではなかったらしい。もしかしたら、7足に見えた本当は3足ぐらいだったのかもしれない。
やや色の濃い目の、パンティストッキングといってもタイツに近いようなあのパンティストッキングは、風に揺れてもつれたり、絡まったりしながら、日光を浴びている間に、あっという間に乾いてしまうのだろう。

S9歩/倒/転/起―着衣

再び古着の中へ
ボロの中へ
「入」り込む
7人の偽物
上着をはおり
ズボンをはいて
歩き出す

着衣について

稽古場でどんなに落ち込んでいる俳優もこの場面に来ると生き生きしだす。おそらく着衣というものはそういうものなのだろう。いわゆる着衣とは何かという問いに対して、身体の加工や変形の営みであると答えることも出来る。身体の自己解釈として、あるいは自己造形として。
幼児の衣装にこだわる男。帽子と靴を必死の思いで捜してしまう女。どうしても女装をしてしまう男。派手な柄物でなくては満足できない女。
おそらく彼らの存在は、物理的な形態を変えることで自己の本質そのもの変容したい、自己の限界から抜け出たいという欲望で疼いている。

S10歩/列

列を成す7人
「脱」け出る方向を探している
7人の男女
あるいは、
7人の半死体
繰り返される、時間の断片

繰り返しについて

同じ文字を繰り返し書き続けると、自分の書いている文字が本当にその文字だったのかどうか不安になることがある。またそれを通り越して無気味になってしまうこともある。それはもちろん、同じ文字を何度も繰り返し書き続けることによって、その文字の持つ意味ではなく、その文字の形を見ることから生まれた不安や無気味さなのだろう。つまりそういった不安や無気味さにかられるのは、普段ほとんど文字の形を見ていないあるいは気にしていないということに違いない。例えば本を読んでいる時、文字の連なりによって「意味」や「物語」を受け取っているにも関わらず、そこに文字があるということを忘れている。大体いちいち文字の形にこだわっていたら一冊の本を読み終わるのに何年かかるかわからない。そこで読書法としては、「形」よりも「意味」をということになる。
ところで、舞台上の俳優を、観客は、「意味」としてみているのだろうかそれとも「形」としてみているのだろうか。

上演台本を作るにあたって

私たちはここ数年間、作品を作るにあたって、戯曲や台本といった、文字テキストを使用していない。それは、戯曲や台本の読解や、あるいは変換、編集、といった作業を通して見えてくる人間像に「違和感」を持ってしまったからだといっていい。
私たちの方法論は、現在のところ、出来るだけ単純な言葉で作品を作ることにある。単純な言葉とは、Remainsの場合「歩く」「転がる」「倒れる」「起きる」の4つである。
Remainsの目的は、複雑に進化した言葉や思想によって切り捨てられ、捨てられていった身体の行方を、単純な言葉の側から、探し出すことにある。
上演台本を作るにあたって、全10景、という形になっているが、俳優にとっては、一幕一場かもしれないし、全40景の俳優がいるかもしれない。そういう意味ではこの上演台本は、ほとんど演出の勝手な思い込みであり、戯言であるといっていい。
作品を作るためには膨大な時間が必要だ。稽古の時間とほとんど同じくらいの雑談の時間、稽古場に持ち込まれた、雑誌の切り抜き、新聞の切り抜き、写真、俳優によって描かれたイラストの数々。それらのことがこの上演台本には書き込まれてはいない。それは紙面の都合ということはもちろんあるのだが、それ以上に、書き込んではいけないという何者かの力にしたがったまでだ、といったほうがいいのかもしれない。
また、この上演台本は、2004年11月17日~23日にかけて、江古田ストアハウスで上演された、「Remains」をもとに作られたものである。

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