「縄」の初演は、昨年の7月である。
その後、11月にソウルでのフィジカルシアター参加、本拠地江古田ストアハウスにおいて、東京都千年文化芸術際に参加し、本年4月には、ロシア公演(モスクワ・サンクトペテルブルグ)を行った。
「縄」が、これほど短期間の間に、海外での2公演を含めて、公演回数を重ねることになったことに正直言って驚いている。しかし驚いてばかりもいられない。本音を言えば、驚きよりも不安のほうが大きい。
「縄」は韓国の観客にはロシアの観客には果たして、どんな印象で捉えられたのだろうか。
「縄」は「縄」にしか過ぎない。
「縄」でしかない「縄」がいろんなものに見えてくる。いろんな「意味」に見えてくる。いろんな「物語」に見えてくる。
そんなことを考えて作られたこの作品が成立するためには、観客の想像力を徹底的に信用しなければならない。そして観客の想像力は、観客の数だけ存在するということも忘れてはならない。
しかし、公演回数を重ねることで、あらかじめ観客の想像力を予定してはいなかったか。現在の不安はそこにある。
観客の想像力を徹底的に信用することと、観客の想像力をあらかじめ予定することの違いはかなりきわどい。
しかし、そのきわどさを見つめていかなければ、この作品を上演する価値はない。
「縄」から「縄Ⅱ」と改題された今回の作品における問題はそのあたりのことになることは間違いない。
舞台という閉ざされた場所において生まれる、「意味」や「物語」。
そこに生まれた「意味」や「物語」を背負わなければならない「俳優」という存在。
その「意味」や「物語」を肯定しようが、否定しようが、現実はそこにしかない。
「舞台」という現実を、支えるのは観客の想像力だ。
そしてまた「舞台」という現実を切り裂くのも、観客の想像力である。
観客の想像力の前に投げ出されて俳優に身体は恐ろしく不安だ。
しかしそうすることでしか、私たち自身が、普段見逃している新たな「意味」や「物語」を発見することができないと、今の僕は考えている。
演出ノートより