80年代小劇場演劇をめぐって ―小屋を持つこと、持たないこと―

07/4月

 「小屋を持って、その小屋を拠点に活動を続けている劇団」は、意外に少ない。演劇批評家である、西堂行人氏にそういわれ、あらためてそう思った。
 また、同じく西堂氏に、「80年代、あなたは何をしていたのか」と問われて、困ってしまった。
 そういえば俺はいったい何をしていたのだろう・・・・・などと自分自身の過去を振り返って、感慨にふけっている場合じゃない。
 こういう質問には気をつけなくてはいけない。
 おそらく、西堂さんは、「60年代、アングラ、演劇革命」の延長上に、現在、「小屋を持って、その小屋を拠点に活動を続けている劇団」を、位置づけたいのだと思う。そして、「小屋を持って、その小屋を拠点に活動を続けている劇団」が、60/70年代をどのように継承し、また、80年代をどのように潜り抜けたかということを聞き出したいのだと思う。「継承」といわれれば、たしかに「継承」したような気もするし、「継承」していないような気もする。
 さて困った、本当に困った。

 現在、私は、江古田ストアハウスという小屋を持ち、ストアハウスカンパニーという劇団を率いている。
 しかし、正確にいうと「ストアハウスカンパニー」は、「小屋を持って、その小屋を拠点に活動を続けている劇団」ではない。「ストアハウスカンパニー」は現在、「小屋を間借りし、その小屋を拠点に活動を続けている劇団」である。
 「小屋を持つ」ことと、「小屋を間借り」することの、違いがどこにあるのかといえば、それは、「連帯感」の問題である。
 「小屋を持つ」にしても、「小屋を間借り」するにしても、またもっと単純に「小屋を借りる」にしても、「家賃」は支払わなくてはならない。つまり、小劇団の場合、「家賃」を支払うためには、そのための「連帯感」が必要なのだが、「ストアハウスカンパニー」の場合、「小屋を持つ」ことでは、支払う「家賃」に対する「連帯感」を持つことは、不可能なのである。今「ストアハウスカンパニー」の「連帯感」は「小屋を間借りする」ことで、精一杯である。
 それは、「小屋を持つ」必要がないくらい、たくさんの劇場が、巷にはあふれかえっている現状の反映でもあるのだが、それだけではなく、私が以前、主宰していた「小屋を持つ」劇団を「小屋を持つ」ことの「連帯感」の重さから、結局、解散しなければならなかったという、後味の悪さへの反省でもある。今も昔も、どんな劇団も「小屋を持つ」ことは、目的にはなりえない。「小屋を持つ」ことはあくまでも手段なのだ。しかし、よほど自覚的にならなければ、手段と目的をはきちがえてしまうものだ。
 そういうわけで、現在、「ストアハウスカンパニー」は、「小屋を持つ」のではなく、また「小屋を借りる」のでもなく、「小屋を間借り」している劇団である。
 しかし、そうはいっても、「ストアハウスカンパニー」は、「江古田ストアハウス」という「小屋を拠点」に活動している劇団であることには変わりはない。その意味においては、「小屋を持つ」ことと「小屋を間借り」することの違いは、ほとんど気分の問題であるといってもいい。
 だから、もし私が、「60/70年代」を「継承」しているのだとすれば、それは、おそらく「小屋を持つ」ことではなく、「小屋を拠点」に、活動を続けているということになるのだと思う。しかし「継承」は難しい。それは形式の問題だけでなく、私自身の、思想の問題でもあるからだ。つまり、何故「小屋を間借り」してまで、「小屋を拠点」に活動を続けているのかという、私自身のことを考えなければならないからである。

 

 私が、何の疑問も持たず、「小屋を持つ」劇団として、「劇団七転舎」(ストアハウスカンパニーの前身、1994年に解散。)を、現在の江古田ストアハウスのある、西武池袋線江古田駅南口改札前、第東京ビルの5階(その頃は、4階の稽古場はまだなかった。)に設立したのは、1984年のことである。
 私は1957年、昭和でいえば32年の酉年生まれ、この際、酉年は関係ないが、1984年といえば、私はまだ27歳の若さである。今思い返してみると、よくもまあその若さで、無謀にも、「小屋を持つ」ことを考えてしまったもんだと、あきれてしまう。
 その頃の私は、早く大人になりたかったのだと思う。そのことだけを考えていたような気がする。つまり、親の背中に追いつき、追い越すことだけを考えていたのである。
 そういう私にとっての「親」とは、「天井桟敷」や「状況劇場」、「黒色テント」、「早稲田小劇場」や、「転形劇場」、あるいは、「中村座」のことだ。いずれも、いや、テントを小屋といってはいけないとしたら、そのほとんどが、「小屋を持つ」劇団だった。
 「親」の背中に追いつき、追い越すためには、どうしても「小屋を持つ」劇団を作らなければならない。おそらくその当時、私はそう思い込んでいたのだと思う。
 つまり、私は、良い意味においても、悪い意味においても、圧倒的に親の影響を受けて育ったしまった子供だったのである。
 ところが、同時期、「小屋を持たない」劇団が、数多く出現した。いわゆる80年代小劇場ブームである。そして、80年代小劇場ブームを支えたのは、「小屋を持たない」劇団である。
 当時をふりかえってみると、「小屋を持つ」劇団は、なんとなく暗かったように思う。それは、「小屋を持つ」ための「連帯感」の重さが、そういう印象をかもし出していたような気もするのだが、その頃、出来上がり始めていた、それまでの「アングラ」演劇ではない、新しい「小劇場」演劇という業界の外側に、「小屋を持つ」劇団がはじき出されたというのが本当のところだと思う。真ん中は明るい。端っこは暗いのである。
 ともかく、「小屋を持つ」劇団は、ネアカ/ネクラで言えば、ネクラである。オモイ/カルイで言えば、オモイのである。新人類/旧人類で言えば、旧いのである。(80年代、こういう言葉が流行していた。)
 それに比べて、「小屋を持たない」劇団は、ネアカで、カルクて、新しい。それはある意味当然のことである。「小屋を持つ」ことの「連帯感」と比べても、「小屋を持たない」ことで生まれる「小屋を制覇」する「連帯感」のほうが、どう考えても、ネアカで、カルクて、新しいのである。
 本当のことを言うと、私はその当時「小屋を持たない」劇団が、うらやましかった。ネクラで、オモクて、旧い、「小屋を持つ」劇団を選んでしまったことを後悔もした。それほど「小屋を持たない」劇団には勢いがあったのである。
 やはり、どうあがいても、勢いというものはかなわない。結果的に、私は80年代、「小屋を持つ」劇団に、引きこもってしまうことになるのである。
 それはともかく、ネアカで、カルクて、新しい「小屋を持たない」劇団はいったいどこから生まれてきたのだろう。
 いくら新人類でも、親はいなかったわけではない。親はいなくても子は育つが、親がいなければ、子供は生まれない。新人類にも、親はいるのだ。
 言うまでもないことだが、「小屋を持つ」劇団の「親」も、「小屋を持たない」劇団の「親」も、同じく、「アングラ」演劇であることには間違いない。
 ただ、彼ら、新人類は、「親」を殺そうと思ったのである。それも、徹底的に殺そうと思ったのである。自身の身体の遺伝子を作り変え、皮膚を張り替え、用意周到に出自を隠し、突然変異的に生まれてきた新人類として、「親」を抹殺してしまうことを考えたのである。
 つまり、彼らは、「親」に対してまともに反抗したのだと思う。世代を意識するということはそういうことだ。子供は「親」を選ぶことはできないのが、反抗することはできる。「親」とは別の道を歩くことだってできる。おそらく彼らもまた、圧倒的に「親」の影響を受けた結果、「親」を殺すために、「小屋を持たない」劇団を、選択したのに違いない。今思うと、彼らに比べると、私は本当に頭が悪かった。
 これが、80年代小劇場演劇ブームを、同世代として潜り抜けた私の、ほとんど愚痴にも似た感想である。
 ともかく、私の「小屋を持つ」劇団は、売れなかった。本当の意味で、私は引きこもり続けていた。引きこもりながら、「売れる」、「売れない」ということを考えていた。「売れる」演劇が存在するということ。そのことによって「演劇業界」なるものが存在するようにも見えること。そのような「演劇」の外側で、「演劇」を考えること。それはつまり、「演劇とは何か」というような青臭いことなのだが、「引きこもり」には、青臭さを青臭さと感じさせない強い力がある。
 何も好きこのんで「引きこもった」わけではない。「小屋を持つ」ことによって結果的に引きこもったしまったわけなのだが、その頃の私は、「演劇」の外側で、「演劇」を考えることに夢中になっていた。というよりは、そのこと以外にすることがなかったといったほうが正しい。

 

 そんな昔のことを考えていたら、最近、よく江古田ストアハウスに遊びに来る、ある若手の劇団の主宰者に、「昔はどうやって小屋を維持していたのですか」と聞かれてしまったので、「それはみんなでお金を出し合っていたんだよ」と答えたら、「小屋を持つために、あるいは維持するためにお金を出し合うなんてそれはほとんど宗教と同じじゃないですか」と言われてしまった。
 今30歳を少し超えたばかりの彼にとって、「小屋」は「持つ」物ではなく、「借りる」物だ。そして「目指す」物でもある。実際、彼は今都内にある客席数400人程のある劇場を「目指し」ている。あと4、5年のうちに、その劇場に進出できなければ、劇団を解散する覚悟であると、彼は宣言している。
 そういう彼にとって、私は80年代、どうやら「演劇」ではなく「宗教」をやっていたように見えるらしい。確かに私は、「小屋」にほとんど引きこもっていた。「小屋」に引きこもって、なにやらわけのわからない台詞をつぶやいている姿は、なるほど「宗教」に近い。
 しかし、黙って聞いているのもしゃくなので、「演劇」と「宗教」の、どこがどう違うというのだ、と言い返したくなった。「演劇」にしろ、「宗教」にしろ、「人間が人間を見るための制度」じゃないか、ただ「演劇」が「宗教」とほんの少しだけ違うのは、「演劇」は「演劇」という「制度」を徹底的に疑っているからこそ「演劇」なのだ。と喉元まででかかったのだが、止めてしまった。
 今、彼にとって、「演劇」の目的は、劇団を大きくすることだ。観客を増やし、「小さな小屋」から「大きな小屋」へ、「演劇」という「市場」の中で、「劇団」という価値を高めることに必死なのである。考えている「演劇」があまりにも違うために、それ以上話を続けることをあきらめてしまったのであるが、私はどうも最近、諦めが早い。反省しなければならない。やはり私は、彼に対して最後まで、言うべきだった。

 「演劇」には「市場」なんかありはしない。「市場」があると錯覚してしまうのは、「演劇」が「商品」であることに何の疑いも持たないからだ。「演劇」は「商品」であって、「商品」ではない。「演劇」は、自分が「演劇」であることを疑わなければならない、ちょっと特殊な「商品」なのだ。つまり「演劇」には「相場」が存在しない。極端なことを言えば、「演劇」は、あくまで「観客」と1対1で行われる、物々交換であるといってもいい。
 「演劇」に「市場」があり、「相場」があると錯覚してしまうのは、そういう「観客」の存在を無視しているからだ。「演劇」に価値を見出すのは、あくまで「観客」であり「市場」ではない。
 そうはいっても、「市場」や、「相場」の動向を気にかける「演劇」も確かに存在する。それは、そのほうが、「演劇」のことを考える必要がないからだ。「演劇は、こうあるべきだ」という目的に向かって邁進するほうが、「演劇とは何か」を考えるよりは、はるかに人間の欲望にかなっている。
 「市場」の外側で「演劇」を考えること、「演劇」の外側で「演劇」を考えること、それが80年代に「小屋を持つ」劇団に、引きこもった最大の理由であり、現在、方法的に、「江古田ストアハウス」に、引きこもっている理由でもある。
 私にとって、「小屋を拠点」にするということは、すなわち「引きこもる」ことである。

 ここへ来てようやく、西堂さんの問いに答えることができそうな気がしてきた。

 西堂さん、80年代、私は、引きこもっていました。
 そして、これからも引きこもり続けます。

ページのトップへ戻る