韓国公演を終えて感じたことは、通訳の存在ということです。
公演終了後、日韓の参加劇団によって、交流会が行われたのですが、まず言葉の障害が大きく立ちはだかります。簡単な挨拶程度の会話ならともかく、少し込み入った演劇の話になったら通訳なしではどうにもなりません。そこで通訳の奪い合いという事態になるわけです。
通訳の人は、僕の日本語を韓国語に、翻訳してくれるわけなんですが、そこにどうしても時差が生まれます。その時差は、本当は結構まどろっこしい時間だったような気がするんですが、それがそうでもなかったことに驚きを感じました。
あたりまえの話ですが、僕は日本にいるときには日本語で考えて日本語で会話をしています。つまりそのことで通じていると思っています。通訳を介しての会話では、韓国語が日本語に翻訳されて僕の耳に入ってくるのですが、100%は通じていないんだろうなと思いながら話をしていたわけです。
でもそのことが決して不快な感覚ではなく、妙に開放感があったような気がしました。
もしかしたら、日本にいるときには、日本語によって通じなければならないという強迫観念に僕自身縛られているのかもしれません。あるいは通じていないのに通じていると思い込んでいるだけなのかもしれません。
日本人同士、日本語によって会話をしているときにも本来通訳が必要なのではないかと本気に思ったりしました。
そう考えてみると、日本にいるさまざまな友人の顔が、そうだあいつはいつも通訳的な立場にいるなとか、通訳としては有能だなとか、日本にいるときとは違った顔に見えてきたりしました。
とにもかくにも交流会の席では通訳の人が主役です。
頭の中が日本語と韓国語でごちゃ混ぜになりながら、毅然と立っている姿に僕は本当に感動しました。
通訳によって翻訳されている時間、空間そのものが劇場でした。
もちろん演劇も通訳であるべきだし、そのとき何を誰に翻訳しているのかということを忘れてはいけないのだと思います。
韓国という外国の舞台に立ったカンパニーのメンバーがいったい何を通訳したのか、何をどのように翻訳したのか、そのときの言葉はいったいどこに向かおうとしていたのか、今僕はそのことを考えています。
通訳をしてくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。