今、再び、「劇場」を考える

09/6月

 2008年9月30日、ストアハウスに東京消防庁、練馬消防署、練馬保健所、ならびに練馬区建築指導課の合同による、総勢27人にも及ぶ査察が入った。
 わたしは、あまりのものものしさに、不謹慎にも、中村吉衛門演ずる鬼平犯科帳を思い出してしまい「火付け盗賊改め、長谷川平蔵である」と一人つぶやきながら、ただただ、ボーとしていたのだが、あれよあれよというまに、練馬消防署に呼び出され、勧告書類を受け取ることになり、協議の結果、2009年7月31日を持って、江古田ストアハウスは、劇場ではなくなることになった。
 というよりは、建築基準法、消防法によれば、江古田ストアハウスは、もともと劇場ではなかったということになるらしい。建築基準法では、劇場のように不特定多数の人が集まる建築物においては、非難経路が2方向以上確保されていなければない。階段が、1系統しかないビルの5階には、そもそも、劇場は存在しないし、してはならないのである。確かに、雑居ビルの5階にある劇場は大変に危険である。今まで何の事故がなかったからといって、これからもそうであるとは言い切れない。消防署の言うことはもっともである。もう25年もやっているんですよと泣きついてみたところでしょうもない話である。
 つまり、ストアハウスは劇場としては、存在していなかったのだ。消防署としても、存在しない劇場を取り締まるわけにもいかず、結果的に、黙認されていたのだが、毎週のように公演が行われている現状では、そうはいかない。時代が変わったといわれればそれまでのことである。
 なんにせよ、こちらの都合などお構いなしに、終わりは、突然やってくる。
 ところで、江古田ストアハウスは、消防署の言うように、もともと劇場ではなかった。1984年、私が主宰していた、劇団七転舎の稽古場兼劇場としてつくられた場所である。当初は、劇団七転舎アトリエと呼んでいたのだが、「アトリエ」はなんだか恥ずかしいと誰かが言い出し、それでは、劇団名が漢字なのだから、マスコットネームはやはり英語かと、「ストアハウス」と名づけた。
 ストアハウスは、倉庫の意味である。エレベーターもない雑居ビルの5階にある倉庫、そこにうずたかく積まれているもの、それは記憶である。そしてその記憶は、まだ誰のものでもない記憶である。演劇とは、その記憶に深く関わることなのだ。そんなようなことを言って、当時の劇団員を説得した覚えがある。今思うと、少々、気恥ずかしいのだが、それは、やはりそうだったのだ、という気がしないではない。
 劇団七転舎は、10年の活動の後、1994年、解散することになる。解散の理由は、一にも二にも経済的な困窮である。アルバイトを続けながら、稽古場を維持し、作品を発表し続けるということを10年も続けるうちに、劇団の理念などどこかに吹っ飛んでしまい、いつしか稽古場に集まる根拠そのものを失ってしまったのである。
 いや、そうではない。結局のところ、私たちの演劇は売れなかったのである。そう言い切ったほうがいい。
 時代は、「演劇」が、商品として流通し始めた80/90年代である。
 「演劇」が商品であることに何の自覚もなかった私たちは、その有り余るエネルギーを、私たちなりの演劇理念の探求などという具にもつかない戯言をつぶやき続けることに費やすことに疲れ果て、売れないものには一切の価値はない、という市場原理のもと、「やっぱり芝居じゃ、食っていけないよな」とお互いの肩をたたきあい、やがて訪れた沈黙の中、「ちょっと待てよ、そもそも俺たちは、食うために芝居を始めたわけじゃないじゃないか」と誰かが啖呵をきるのを待ちきれず、結局のところ、誰も何も言い出すこともなく、そして後ろを振り返ることもなく、別れてしまったのだ。
 つまり、私たちは負けたのである。
 しかし、本当にそうなのだろうか。本当に私たちは負けたのだろうか。演劇に勝ち負けはあるのだろうか。そもそも「演劇」は商品なのだろうか。商品だとしたら、マーケットはいったいどこに存在しているのだというのか。私たちは勝手に負けてしまったのではないか。勝負はまだまだこれからだ。
 ほとんど負け犬の遠吠えであるが、そんな思いが、もともとビリヤード場だった4階を、ロビーと稽古場に改装し、現在の「江古田ストアハウス」を「劇場」として、形づくるきっかけとなったことは確かである。
 負け犬だろうがなんだろうが、人は時々吠えて見なくてはならない。吠えてみなくては、自分が何者なのかもわからない。同じ負けるにしても、胸を張って負けていこう。すごすごとうなだれ、尻尾を巻いて逃げ帰ることだけはしてはならない。だいたい帰る場所など、どこにあるというのだ。それが、劇団七転舎の10年に対する、つまりは、売れない「演劇」に対する、わたしなりの、落とし前である。
 その当時、わたしはそんなことを考えていたように思う。
 とにもかくにも、あれから15年。「江古田ストアハウス」は劇場であり続けた。消防法的に「劇場」であろうとなかろうと、建築基準法的に「劇場」であろうとなかろうと、「江古田ストアハウス」は「劇場」だったのだ。

 売れない「演劇」の、終わりの場所として。
 売れない「演劇」の、始まりの場所として。
 そして、売れない「演劇」を、売る場所として。

 「江古田ストアハウス」がマーケットだったのかどうか、マーケットの一翼を担ったかどうか、そして、そのマーケットがどんなマーケットだったのかどうか、本当のところは、わたしにはわからない。ただ言えるのは、観客はどこにもいないということだ。いや、そうではなく、客席はいつも満員だったのだといってもいい。
 観客はそのたびごとに生まれ、そして消えていく。それが、「演劇」が売れない理由であり、売れない「演劇」を売る場所を作ろうとした、わたしの動機でもあるということだ。
 どういうわけか、「江古田ストアハウス」は、わたしの目論見よりはだいぶ長く生き延びてしまった。そして、あっけない終わり方で幕を閉じる。
 今後、どうするんですかと問われるたびに、「それはもちろん続けますよ」と答えているのだが、気が重い。売れない「演劇」を売るということは、やはり相当の体力が要ることなのだ。
 しかし、わたしは「劇場」を続ける、のだと思う。続けることで、わたしはわたしなりの責任を取らなければならないような気がしているからだ。その責任は、誰のために背負わなければならない責任なのか、はっきりとはわからない。うまく言えないが、「劇場」を考えるためには「劇場」をつくるしかないのだ、とは言えるような気がする。
 ああ、むずむずしてくる。吠えたくなってきた。やはり人は吠えたいときには吠えなければならない。

 居酒屋で、「今、やめるわけにはいかないでしょう」とわたしに毒づいた若いあなた。
 それはそうなのだ。あなたは正しい。そしてあなたは間違っている。
 別に、それは、わたしでなくてもかまわないのだ。
 しかし、わたしは「劇場」を続ける。
 それは、やはり、わたしでなければならないからだ。
 と、今のわたしが、考えているからだ。

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