「ご挨拶にかえて」

2010.6月 『Limit』当日パンフレットより

稽古の最中、俳優に向かって、「芝居をするな」と叫んでしまうことがある。俳優は、芝居をするために稽古場に集まっている。その俳優に向かって「芝居をするな」とは何ともわかりづらい言い方ではある。
会社で「仕事をするな」と言われたら、たいていの従業員は腹を立てて家に帰ってしまうのだろうが、今のところ、「芝居をするな」と言われて家に帰った俳優はいない。とすると、私と俳優の間で交わされる「芝居をするな」という言葉は、何らかの意味を持ち流通していることになる。しかし油断は禁物である。お互いに理解しているはずのことが、実のところ単なる勘違いだったというようなことはよくある話である。
以前、ある若い俳優に、「芝居をするな」という言葉をどういう意味で聞いているのかということを尋ねたところ、よくはわからないのですが、今やった演技が違うということをいわれているという受け取り方をしているというような返事が返ってきた。それはそのとおりである。私が俳優に向かって「芝居をするな」と叫んでいるときは、目の前で行われている演技に何か違和感を覚えているのであり、その違和感をうまく言葉に表すことができない苛立ちが、私の声を大きくさせているのは確かなことである。
しかしそれだけではなく、私は本当に嫌なのだ。目の前で行われている俳優の演技が、いわゆるお芝居に見えることが許せないのだ。私にとって、いわゆるお芝居とは、自らが置かれている状況を説明しようとする演技である。その説明は言い訳にすぎない。そして、たいていの場合、言い訳は醜い。
そんなようなことを、その若い俳優に言った覚えがある。が言ったところでもやもやは晴れない。何かすっきりしない。つまりは、うまく言い当てることができないのだ。
要するに、演技に対する違和感だけを、私と俳優は共有しているのかもしれない。
最近では、「芝居をするな」と大声を出すことは少なくなってきたのだが、それでもどうしても叫んでしまうことがある。そしてそのたびにそのことの意味を考えなければならない。
言うまでもなく、舞台は、虚構の世界である。俳優はその虚構の意味を背負い、その舞台に立つ。そして俳優は、その世界を説明する存在なのではなく、その世界を生きている生身の存在なのだ。日常であれ、虚構であれ、生命は生命である。これは日常の生命、虚構の生命と、簡単に境界の内外に分け隔ててしまえるものではないのである。俳優は演じることによって、日常と虚構の世界に漂う生命を実感する。あるいは、日常という時間の中に隠された生命を、虚構の時間の中で掘り起こすのだ。
そんなことを考えながら、今回のお芝居「Limit」の稽古を振り返ると、おそらく稽古場の中で何回か叫んだ私の「芝居をするな」は、俳優に向かって「生きろ」といいたかったのだ。とそんな気がしてきた。
いまさらそんなことを、訳知り顔で言ったところで、何になるのだ。「生きる」のは俺たちなんだ。と俳優に言い返されそうな気もするのだが、それでも本番前の彼らに、私はもう一度言いたい。
「芝居をするな」そして「生きろ」

ストアハウスカンパニー主宰・演出  木村真悟

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