「江古田ストアハウス閉館にあたって」

「テアトロ」2009年9月号掲載

 江古田ストアハウスは、2009年7月22日~26日に行われたストアハウスカンパニー公演「箱」を最後に、その25年の歴史に幕を閉じた。閉館の理由は、消防法である。建築基準法では、劇場のように不特定多数の人が集まる建築物においては、非難経路が2方向以上確保されていなければならない。したがって、階段が1系統しかないビルの5階には、そもそも、劇場は存在しないし、してはならないというのが消防署の言い分である。なんとも情けない話だが、江古田ストアハウスは、劇場ではなかったということになるらしい。
 そうはいっても25年である。建築基準法の上では劇場ではなかったとはいえ、25年の間、江古田ストアハウスには、ただ単に不特定多数の人が集まっていたわけではない。観客が集まり続けたのである。つまり、自称であれ、何であれ、江古田ストアハウスは劇場だったのだといっていい。
 江古田ストアハウスは、1984年、当時、私が主宰していた劇団七転舎の稽古場兼劇場として、産声をあげた。しかし、10年の活動の後、演劇的に行き詰った私たちは、それまでの作品を発表する場所としての「劇場」を維持するのではなく、江古田ストアハウスという「劇場」から「演劇」を考えることにした。発想の転換である。そして、そのために劇団七転舎を解散し、新たに江古田ストアハウスを拠点にする劇団、ストアハウスカンパニーを設立し、現在に至るまで活動を続けてきたのである。
 当たり前の話だが、「劇場」には「舞台」があり「客席」がある。「劇場」から「演劇」を考えるとは、「舞台」と「客席」のことを考えることである。つまり、それは、私たちは誰に観られているのかということを考えることであり、同時に私たちは、いったい何を観ているのかということを考えることである。
 30年くらい昔のことである。私がまだ大学に通っていた頃、大学構内にある100メートル程のスロープを半裸で白塗りの男が想像を絶するスローモーションで移動している姿を目撃したことがある。彼は昼ごろにはスロープを登っていたのだが、夕方には、そのスロープの中ほどを下っている最中であった。それは今では誰でも知っている有名な舞踏家のパフォーマンスだったのだが、それまで舞踏など見たこともなかった私はただただあっけにとられ、いったい彼は誰に見られているのか、そして私はいったい何を見たのか、そのことだけを考えていた。今思うと、私が彼を見ていた数分の間、そのスロープは劇場だったのだし、私が彼を見ていなかったおそらくは8時間を有に越えていたであろうその時間も、そのスロープはやはり劇場であったに違いない。
 見ることと見られることを考えることにしか演劇の可能性はないのだと、本当にそう思う。演劇は、見ることと見られることの間にしか存在しないのだ。
 1999年に始まった、江古田ストアハウスにおける最大のイベントであるフィジカルシアターフェスティバルは、まさにそのことを考えるために行われてきた。日本、韓国、マレーシア、ロシア、台湾、インド、インドネシア、タイから訪れた延べ37劇団は、単なる国際交流のために江古田ストアハウスに集結したわけではない。見ることと見られることの間に、否が応でも立たざるを得ない身体の不可思議さを考えるために開催されてきたのである。たくさんのボランティアスタッフに支えられたフィジカルシアターフェスティバルは現在までに7回を数えた。数を重ねる中で、私も、江古田ストアハウスも、ストアハウスカンパニーも、多くのことを学んだ。中でも私にとって大きかったことは、畏れを持つことの重要性である。私たちは誰に見られているのだろうという畏れ、同時に私たちは何を見ているのだろうという畏れ、畏れをなくした批評や、批判や感想は、議論のための議論に終始する。そしてまたストアハウスカンパニーにとっての一番の財産は、フェスティバルのホスト劇団としてこのフェスティバルに参加することを目的に新作を創り出すことができたことである。
 ところで、さよなら公演として行われた「箱」は、観客の異様な熱気に包まれて上演された。終演後、ある若い観客が、自分が生まれる前からある劇場の最後に立ち会うことに緊張を感じながら観劇したといったことを思い出す。また出演した俳優の一人は、観客のあまりの視線の強さに舞台に立っている自分が置いてきぼりにされていくような不思議な感覚になったというようなことをいっていた。
 「箱」は、1999年に行われた第1回フィジカルシアターフェスティバルに参加するために作られた無言劇である。無言で上演された劇に対して、無言の観客の拍手が鳴り止まぬ様子に、私は、やはり、江古田ストアハウスは劇場であったのだということをあらためて思った。
 そして、拍手の渦の中に立っている俳優の姿に、思わず涙ぐみそうになりながら、この25年間、私自身、いったい何を見ようとしてきたのか、また誰に見られていたのかを考えなければならなかった。なかなかどうして、江古田ストアハウスは、私を簡単には泣かせてくれない。
 しかし、そうはいっても閉館は閉館である。別れの言葉を述べなければならない。月並みだが、江古田ストアハウス様、長い間、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。と言うことで、江古田ストアハウスと別れることにしたいのだが、どんなものだろうか。

江古田ストアハウス代表/ストアハウスカンパニー主宰  木村真悟

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