「ここだけの話」

09/3月

 私たちストアハウスカンパニーが拠点としてきた江古田ストアハウスは、2009年7月末日を持って移転することになりました。
 江古田ストアハウス代表の木村さんによると、移転の理由は消防法の問題です。避難階段のない雑居ビルの5階に劇場があるのは大変危険であり、直ちに退去するようにという消防署の勧告に、木村さんは従うということのようです。もちろん従わざるを得ないというのが実情なのだと思います。
 この話を聞いたときにはともかく驚きました。私たちは、何の根拠もなく、ストアハウスはこれからも江古田にあり続けるのではないかという、妙な自信のようなものを持っていたからです。
 移転先はまだ見つかっていません。したがって、今後のことはまだわからないのですが、今回の公演が、江古田ストアハウスにおける私たちの最後の公演になることだけは確かです。
 私たちは、江古田ストアハウスの4階にある稽古場で稽古をし、5階の劇場で作品を発表するという形で活動を続けてきました。それは、私たちが、劇団が観客動員のために劇場を探す、あるいは目指すという考え方ではなく、劇場が劇団を支え、その結果、劇場が作品を生み出すという木村さんの考え方に賛同してきたからでもあります。
 そうはいうものの、大、中、小、さまざまなお洒落な劇場が増えている現在の東京において、木村さんの考えについていくのはかなりしんどかったのも事実です。エレベーターなしの4/5階に上り続けるということは、観客にとっても私たちにとってもかなりの体力を要求することだからです。
 ともかく、かれこれ15年、私たちは、江古田ストアハウスという場所にこだわって演劇活動を続けてきました。その結果、私たちは、東京の演劇市場の半歩外側で演劇を思考し、作品を作ることができました。その点において私たちは、江古田ストアハウスに感謝すべきだと考えています。
 観客動員を増やし、劇団員を増やし、劇団を大きくすることを目的にしていたら、私たちストアハウスカンパニーはとうの昔に解散していたのかもしれません。
 ところで、江古田ストアハウスは、もともと劇団七転舎の稽古場だったという話を、最近、木村さんから聞きました。劇団七転舎は、木村さんが主宰していた早稲田の学生劇団で、1970年代半ばから文学部内にあった元ポンプ小屋を不法占拠して活動していたらしく、木村さんは3代目にあたるそうです。80年代に入り、大学当局の管理が厳しくなり、追われるようにして、1984年、西武池袋線江古田駅前の雑居ビル、第5東京ビルディングの5階に家賃17万円で賃貸契約を結んだのが始まりとのことです。その頃の話をし始めると、木村さんはかなり興奮し始めるのですが、木村さんたちが江古田に稽古場兼劇場を作ったのは、木村さんがすでに大学を卒業して2年余りがたち、いつまでも大学にいることができなかったということが本当の理由のようです。
 その当時、早稲田の学生劇団が次々と劇場を作っていたことも木村さんたちにかなりの影響を与えたのかもしれません。1983年には、早稲田「新」劇場(現プロトシアター)、上海劇場(モードアトリエを経て、現春風舎)が設立されています。
 先行する60/70年代演劇の劇思想である、「自分たちの表現する場所を確保することが演劇活動の第一歩である」みたいなことを、木村さんは大きな声で劇団員に向かって叫んでいたのでしょう。おそらく木村さんは、早稲田小劇場や転形劇場、中村座をモデルにしていたのだと思います。その頃、劇団の名前は劇場の名前でもあったと、木村さんは言っています。
 そして、1994年、劇団七転舎は解散します。木村さんは解散の理由をあまり多くは語ってくれませんが、結局は経済的な問題だったようです。最初17万円だった家賃も、10年もすると30万円を超えるようになるんだよな、と木村さんは苦々しく言っていた事があります。夢と希望に燃えていた20代の若者も、30代半ばを過ぎる頃には現実に目をそむけることはできなくなったのだということなのだと思います。
 しかしその後、木村さんは演劇から足を洗うことなく、4階にロビーと稽古場を増設し、江古田ストアハウスを創設しました。1994年8月のことです。
 家賃を支払えなくなって劇団を解散したのに、何故規模を拡大して劇場を続けることにしたのですかという私たちの疑問に、木村さんはこう答えています。
 「一劇団では無理でも、この場所を劇場として使う劇団があれば、ここは劇場であり続ける。」
そうはいうものの、エレベーターもない5階までのぼってくるような劇団などほとんどいないに違いないと木村さんは思っていたそうです。もって2年、遅かれ早かれ、江古田ストアハウスは潰れるであろう、と木村さんは本気でそう考えていたそうです。
 ともかく、劇団七転舎時代を含めると足かけ25年、江古田ストアハウスは劇場であり続けました。木村さんの言葉を借りると、江古田ストアハウスを劇場として使う劇団があり続けたということなのでしょう。
 今更、私たちの口から言うのも何なのですが、江古田ストアハウスの大きな仕事は、フィジカルシアターフェスティバルの開催にあると思います。1999年の第1回から2006年の第7回まで行われた、このフェスティバルには、日本、韓国、マレーシア、台湾、タイ、ロシア、インドネシアの延べ、40劇団が参加しています。たくさんのボランティアスタッフに支えられて行われてきたフィジカルシアターフェスティバルの成果は、東京の演劇市場の外側に、もうひとつ別の市場を作り出したことにあります。フィジカルシアターフェスティバルの価値基準は、参加した全ての人に委ねられていました。
 そして、私たちストアハウスカンパニーにとっての財産は、ホスト劇団としてフェスティバルの全日程に参加することができたということです。私たちは、このフェスティバルに参加することで面白いか面白くないかを基準にした演劇ではなく、このフェスティバルにとって必要な演劇を考えることができました。それは言葉を変えると、人間にとって演劇は必要なのかどうかを考えることでもありました。
 ここだけの話ですが、木村さん、演劇を続けてください。そして劇場を続けてください。私たちはとことんあなたについていこうと考えております。

 そして、江古田ストアハウス様、長い間、本当にありがとうございました。
 私たちは、あなたとともにいることで、演劇を考えることができました。

 1999年11月、第1回フィジカルシアターフェスティバル参加のために作られた「箱」を上演することで、私たちストアハウスカンパニーは、あなたとお別れすることにいたします。

 わたしたちは、「箱」を動かします。
わたしたちは、「箱」を動かし続けます。
そして、「箱」は動き続けます。

ストアハウスカンパニー主宰  木村 真悟

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