「古着について」

09/3月

 これまでにも古着を題材にした作品を何本か作っているのだが、公演が終わった後、「あの古着はどうやって集めたのですか」と、質問されることが多い。
 特別に集めたわけではない。もともとは衣装ケースにしまわれていたシャツやズボンを、舞台の上に拡げてみたのが始まりである。
 すると、たいていに人は、「へえ、あんなにたくさん衣装があるんですか」と、ため息をつく。
 劇団を作ってからかれこれ25年、塵も積もれば何とやらである。
 普段から物持ちがいいというわけではないのだが、なんとなく捨てられない。捨てるのは簡単なのだが、捨ててしまったら取り返しがつかないことになってしまうような強迫観念が、働いてしまう。一度、俳優が身につけた衣装というものはそういうものらしい。
 ずいぶん昔、年に一度の衣装の虫干しが恒例だった頃、劇団員と言い争いになったことがある。虫干しの最中、これはもういくらなんでももういいじゃないんですかと、いう声が聞こえてきた。振り返ると、若い劇団員が、虫に食われて穴だらけになった上着をつまんで、困った顔をしている。その瞬間私は、もういいとはどういうことだと激昂してしまったのだ。その若い劇団員には罪はない。いまだになんであんなに怒ってしまったのかよくわからない。だいたいその上着は、誰かがごみ集積場から拾ってきたもので、洗濯のたびごとに形が崩れ、ほとんど原形をとどめていなかった。怒るほうが悪い。私はひっこみがつかなくなってしまい、その若い劇団員は何で怒られたのかがよくわからないまま、結局その上着は、紙くずのようになって、今も古着の中にまぎれている。
 つい最近、何年ぶりかに訪れた元劇団員に、観劇中、ぼろぼろになったレインコートの破片を古着の山の中に発見してしまい、思わずどうしようかとおもいましたよと聞かされたことがある。彼がその時、涙ぐんでしまったのかどうかは聞きそびれたのだが、おそらく彼は、在りし日の自分の姿を古着の中に発見してしまったのだ。ところが、困ったことに、私は、彼とレインコートをどうしても結びつけることができなかった。彼とは10年以上も付き合った仲なのに、どうしても思い出すことができなかったのである。
 思い出や、記憶なんてそんなものなのかもしれない。捨てることができない記憶なんて本人の思い込みだけで、所詮はそんなものなのだ。そう考えると、紙くずのようなってしまった上着も本当にあったのかどうかさえわからなくなってしまう。
 古着の中には、美化された思い出や、忘れられた記憶が眠っている。
 いずれにしても、古着は記憶を呼び起こす。物にはそういう力があるらしい。作品で使われようが、使われまいが、古着は古着。物は物である。そして物には記憶が宿っている。
 ところで、古着の中には、海外公演のたびに、現地で調達した古着も混じっている。つまり、私の知らない、見ず知らずの人が身に着けた古着である。正直言って、俳優が身に着けた衣装と比べると愛着の度合いが違う。かといってやはり捨てることはできない。それは今の私が、知らない物、見ず知らずのものこそ、私の記憶を呼び起こすと思い始めているからに違いない。

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