演出ノート

06/6月

〈故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えたものである。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。〉
 これは、柄谷行人の著作『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)のなかの、『スピノザの「無限」』で、彼によって引用されている言葉です。
 ちなみに、この言葉は、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、12世紀ドイツのスコラ哲学者聖ビィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一説だそうです。
 彼はこの言葉を引きながら、共同体に対して、それを超えようとする個の態度に関して言及しています。
 まず彼は、第一の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考だといいます。またこのタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているともいっています。
 彼は、内部と外部の分割がまずあって、その境界線を越える、というような問題として語られる共同体の外部はむしろ「異界」と呼ぶべきだといっています。また、外にいるものを「他者」ではなく「異者」(ストレンジャー)と呼ぶべきだともいっています。
 さらに続けて彼はいいます。
 『ぼくのいう「外部」とか「他者」とかは、このレベルでは存在しないのです。それは、この種の内部と外部の分割がありえないような“空間”においてのみ現れるからであり、逆にそれはそのように閉じられたシステム(外部を含む)をディコンストラクトするものだからです。』
 つまり、「故郷を甘美に思うもの」は、組織されない無限定な外部に立っているのですがそこは外部ではないということを彼はいっています。
 次に、「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンだと彼は言います。それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び越えられるかのように考えることであり、またそれは共同体を超えた普遍的な理性なり心理なりがあると考えることだともいっています。
 第三の「全世界を異郷と思うもの」はあらゆる共同体の自明性を認めないことだと彼は言います。そしてそのことは、共同体を超えるわけではなく、その自明性に常に違和を持ち、それを絶えずディコントラストしようとするタイプだといっています。

僕は、柄谷行人のこの考えを、俳優論(演技論)として考え直してみたいと思います。
 まず、われわれは舞台を創ります。また舞台に立ちます。この「舞台」は、共同体にとって、どのような「外部」なのか、また「他者」なのかということをわれわれは考えてみなければと思います。
 もちろん、「外部」でもなければ、「他者」でもない「演劇」が存在することも事実です。そのような「演劇」は情緒共同体としてのわれわれを補完し、あるいは確認するための「演劇」です。たとえば、上演時において観客席に座っているわれわれにとって明らかに「外部」であり「他者」であったはずの「舞台」が、いつのまにか観客席に座るわれわれの共同性として溶けてなくなり、あげくの果てに劇場を取り巻くわれわれの共同性とほとんど見境がつかなくなってしまう「演劇」です。
 今僕の考えている「演劇」はそうではない「演劇」です。つまり、共同体としてのわれわれの思考や感覚を揺さぶり、「人間」はこうあるべきだというような支配的な「人間観」に対して絶えず疑いを持ち続ける「演劇」です。そのような場所こそ「外部」であり、「他者」であると、僕は考えています。
 ところで、われわれは好むと好まざるとに関わらず、共同体に属しています。それは家族であったり、職場であったり、日本であったり、韓国であったり、アメリカであったり、イラクであったり、劇団であったりします。いかなる人間も、共同体に内属するという人間の条件は超えることができません。その共同体の慣習や規範を内面化することによって、われわれはわれわれであるのです。言葉を変えると私の身体は私のものではないということです。「私」なる意識は、共同体に内属しているということを忘れさせますが、「私」は共同体に内属しているからこそ生まれたと考えるべきです。
 演劇の場合、俳優の身体はすなわち共同体=劇団という制約の中にあるということです。一人芝居の場合も同じです。一人で演じるための規範を内面化するという過程を潜り抜けなければ上演はありえないということにおいて、一人の俳優の身体もまた共同体=劇団であるといわなければならないでしょう。
 問題はその後に訪れます。
 俳優という個にとって、その共同体を飛び越えようとする態度は、どのように考えられるかということです。
 ある日の稽古のことを考えてみます。
 たとえば、一足歩行です。一足歩行を共同体の規範だとして考えてみます。規範を内面化したとき一足歩行は舞台上で初めて共同体=身体という制約を持つことになります。そして問題はそのときに個としての俳優がとりうる態度ということになります。
 柄谷が抽出した、三つのタイプで考えて見ます。
 まず「故郷を甘美に思うもの」にとって、一足歩行は、異者(ストレンジャー)の身振りです。海外旅行に行ったわれわれが、他国の人の身振りを真似をして何かがわかったようなわからないような気分に陥ってしまう態度です。おそらくそのときの俳優は無限定な外部(カオス)つまりどう歩いてもいいという世界にいるため、一足歩行はいつまでたっても一足歩行にならない恐れがあります。またある俳優にとっては、一足歩行は組織された有限な内部(コスモス)です。この場合の一足歩行は、俳優にとって組織された有限な内部(コスモス)を感じるための手がかりです。一足歩行は技術的に研ぎ澄まされていくことが考えられます。どちらにしてもこの場合、内と外が絶えず交換可能なため、自分はいったい何をやっているのだろうということになりかねません。
 次に「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」にとっては、一足歩行は、共同体=身体の制約を飛び越えた普遍的な歩き方です。あるいは、飛び越えなければならない、共同体=身体の制約です。前者の場合、俳優は一足歩行の技術を磨き普遍に近づくための努力を怠りません。後者の場合、俳優は一足歩行を超えた普遍的な歩き方があると考え、一足歩行を逸脱した歩き方をしたがります。
 第三の「全世界を異郷と思うもの」にとっては、一足歩行は、文字通り異郷の歩き方です。一足歩行を技術的に完璧に習得したとしても、あるいはうまくできなかったとしても、このタイプの俳優にとっては一足歩行はあくまで異郷の歩き方なのです。彼は、一足歩行の自明性を認めず、つねに違和を持ち、絶えず観客との関係の中でその意味を問い続けます。
 柄谷はこのタイプについて次のように言っています。
 「それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。」

 以上、「外部」や「他者」を思考する場合の俳優のとるべき態度について、柄谷行人に倣い三つのタイプに分類することで考えてみました。
 注意してほしいのは、この三つに無理やり当てはめて自分自身のことを考えないでくださいということです。僕自身のことで考えてみても、全部に当てはまるような気もするし、そうでないような気もします。考えれば考えるほどわからなくなるというのが正直なところです。ただひとつだけいえるのは、劇場に足を運び、観客席に座っている僕自身は、客電が消え、客席のざわめきが静まったその瞬間、どうしようもなく「舞台」に「外部」や「他者」の出現を期待しているということです。
 そして、共同体に内属している人間が、決してその条件を超えられないにもかかわらず、そのことを志向してしまう、人間や演劇の困難さを考えると、僕は、第三のタイプ、つまり「全世界を異郷と思うもの」に俳優の可能性があると考えています。

 演劇は、観客の欲望に応答する装置であると考えることができます。
 しかし、肝心の観客の欲望が良くわかりません。
 僕は今観客にも上記の三つのタイプがあるのではと考えています。
 そして僕が今考えている演劇は、「全世界を異郷と思う」観客の欲望に答えることです。

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