「コミュニケーションについて」

06/5月

 私たちは、人間関係において、コミュニケーションは大事なものだと考えています。
 コミュニケーション不足による、かん違い、言い争い等を回避するために、私たちは言葉使いに慎重になり、態度に気をつけて日々を暮らしています。
 たとえば、会社やアルバイト先においては、上司や部下に対して伝達事項を間違えないようにし、その言い方が、横柄になりすぎたり、慇懃になりすぎたり、強面になりすぎたり、また優しくなりすぎたりしないように、注意深く関係を構築しようと努力しています。
 つまり、私たちは、コミュニケーションによってお互いの意志を疎通し、またその立場を確認し、その関係を円滑にするために日々努力を重ねているのです。
 関係を円滑にするための潤滑油、それが、コミュニケーションという言葉に対する私たちのごく一般的なイメージではないでしょうか。
 ところで、柄谷行人という批評家がいます。彼のコミュニケーションに対するイメージは、これとはちょっと違っています。
 彼はコミュニケーションを考える時に、他者を想定しなければならないといいます。彼は
「他者とは、外国人や子供のように、われわれの言葉をまったく理解しないような相手でなければならない。」(探求1)
と言っています。
 また彼は、
「対話は、他者との対話でなければならない。すなわち、自分と異質な他者、異なる言語ゲームに属する他者との対話だけが、対話と呼ばれるべきである。ひとつのコードの中でなされる対話は、自己対話(モノローグ)と同じであり、弁証法もこの意味でモノローグである。」
とも言っています。
 私が彼の「探求」を読みながら考えたことは、たとえばこういう話です。
 AとBというお互いに言語の異なる部族がいます。ある日、AとBは、砂漠の真ん中でひょんなことで出会ったとします。お互いにお互いのことが気になってしょうがありません。しかし言葉が通じません。彼らは身振り手振りで何とか意思の疎通を図るのですが、なかなかうまくいきません。そのうち相手の身振りを戦いの合図とかん違いした若者が、槍や斧を振りますかもしれません。しかし彼らはあきらめません。どちらからともなくその若者を抑え、彼らはお互いが何者であるのかということをわかるために、粘り強く交渉を続けます。彼はそこで行われる交渉こそがコミュニケーションの原型的なイメージではないかということを言っているのでないかと思います。
 彼は、他者とは何かということを考える上で、つまり他者の他者性を論述する上で、コミュニケーションのことを述べているのですが、彼の言おうとしていることを要約すると、コミュケーションが発生するのは、お互いに言語を別にするもの同士が、お互いに言葉が通じないということを承知の上で、つまり通じ合えないという共通の理解の下で、通じ合おうという行為をし続けることに、コミュニケーションの真の意味があるのではないかということだと思います。
 そのうち、AやBの部族はお互いの言語を理解するようになるのかもしれません。AやBの部族だけが理解する、新しい言語を発明するのかもしれません。
 柄谷は、そのような状況においては、コミュニケーションは必要ないのではとも言っています。つまり、通じないもの、わからないものとしての他者が消えた後には、コミュニケーションは必要ないということなのですが、そこにあるのは、命令や、服従や、支配や、被支配だけなのではないのかということを彼は強く言いたいのではないかと思います。
 私は、柄谷のこのようなコミュニケーションに対する考え方に出会ったときに、目が覚めるような思いがしました。
 たとえば、会社やアルバイト先で考えてみます。
 上司がいつものように愛想笑いをしながら、たいした仕事でもないのに会社にとってはとても大事な仕事だというようなことを話しています。部下は上司の機嫌を損なわないように過不足のない笑いを上司に返します。あるいは会社が生き残るためには得意先の一つや二つは切ってしまわなければいけないというようなことを、まるで庭先に生えている、雑草を始末するかのような軽さで言っているときに、部下は膝を組んで、煙草を吸いながらで聞いているとします。その時、おそらく上司にとっても、部下にとってもコミュニケーションがうまくいっていると感じられるかもしれません。部下にとっては上司の言うことはあくまで命令であってそれ以外ではありません。上司にとっては、部下は命令さえ実行してくれる存在であればいいわけです。
 確かに、会社やアルバイト先におけるコミュニケーションはおそらく潤滑油のようなものだと考えられます。そしてその潤滑油は、会社の本来の目的、会社の利益を追求するという目的を隠すために使われているような気がします。上司であれ、部下であれ、会社という組織に対しては、本質的には機能であることには変わりありません。機能とは命令に対して服従するということです。しかし私たちが生きている社会においては、会社は自らの自由意志で選ぶことができるという建前があります。その建前がある以上、命令に対しても自らの自由意志で実行しているという建前が必要なのです。潤滑油は命令や服従という言葉を隠すために使われています。
 ここには柄谷的なコミュニケーションもなければ、意思の疎通さえ必要ないのです。
しかしそうはいっても、私たちはほとんどの場合、潤滑油としてのコミュニケーションという考え方の外に出ることはないように思われます。だいたい日本で暮らし、日本語で会話をしている私たちにとって、言語の異なる部族通しの出会いという喩えは、あまりにも実感がなさ過ぎました。
 あるとき、一人の俳優のことを思い出しました。
 その俳優と、演出家である私がもめています。もめているといっても、その芝居の冒頭5分間がどうしてもうまくいかず、朝方までかかったその稽古でついにはその俳優と私はおもちゃのバットを握り締め、突っ立っているのです。
 私は、何で通じないんだ、同じ日本語をしゃべっているのに。と怒鳴っています。
そのときの事を思い出しながら、私はその瞬間、柄谷的な他者性、そしてコミュニケーションの現場に立ち会っていたのだということに気がつきました。日本語なのにまるで別の言語を話しているように相手を感じてしまうこと、相手もまた私を同じように感じているということ。そこには潤滑油としてのコミュニケーションは存在せず、暗闇に茫然と二つの異形が突っ立っている。彼はこのような状況をコミュニケーションの可能性として言いたかったのではないかというように私は理解しました。
 その俳優のことをもう少し書きます。
その俳優は今ももう芝居をやめているのですが、ご存知のとおり、現在の日本において俳優を自立した職業にできる人はごくまれな存在です。ご多分にもれず、彼も数多くのアルバイトをしながら俳優を続けていました。しかし、何をやってもうまくいかないのです。というかすぐに仕事をやめてしまうだけだったのかもしれませんが、本人もまわりも、コミュニケーションのとり方が下手、あるいは努力が足りないのだと思っていました。この場合のコミュニケーションとは、潤滑油としてのコミュニケーションです。そんなこんなでともかく彼には収入がありません。奥さんには離婚を迫られる有様です。彼はあせりました。しかしいくらあせっても事態は好転するものではありません。時間だけが過ぎていきます。30半ばを過ぎたあたり、彼ついに、株で生きていく決意をしました。なぜ株なのかは彼の話を聞いてみてもどうしても理解することはできないのですが、彼が言うには、ある日、やっぱり株じゃないかと思ったというのです。彼の思った株というのは、彼の父親が、バブル崩壊前に退職金をすべてつぎ込んだ挙句、焦げ付かせてしまった株券のことです。しかし、彼には株の知識はほとんどありませんでした。その時、彼が頼りにしたのは、子供のころから何とはなしに聞いていたラジオから聞こえてくる株式市場の音声だけでした。ともかく一生懸命、ラジオを聴き続けたそうです。
 どういうわけか、彼は今、個人投資家として今成功しています。
 話がちょっと長くなってしまいましたが、なぜ彼の話を持ち出したかというと、彼にとってのコミュニケーションのことを考えてみようと思ったからです。
 おそらく彼は潤滑油としてのコミュニケーションについてはよく理解することができなかったのです。しかし、関係そのものがコミュニケーションである場所、つまり彼は、他者を発見したのです。
 彼にとっての他者とは市場です。市場の前で、彼は茫然と突っ立っています。わけのわからなさ、通じなさの前に、ただただ突っ立っています。
 ちなみに彼から、株の極意を聞いたことがあります。彼が言うところによると、市場がわかったと思ったときには、失敗するそうです。
 いつまで続くのかはわかりませんが、今のところ市場は、彼にとって他者であるようです。
 そしてコミュニケーションの対象であるようです。

 問題は、演劇です。
 演劇にとって、他者とは何なのでしょうか。
 そしてコミュニケーションの可能性はどこにあるのでしょうか。

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