「他者について」

06/5月

 他者である。 
 自己と他者の他者である。
 自己は自己であり、他者は他者である。
 自己とは何ぞや、他者とは何ぞや、そんな難しいことは大学で哲学を専攻している小難しい顔をした学生や、太宰やカフカをポケットの忍ばせて歩いているいわゆる青春坊やたちにまかせておいて、われわれは、私たちは、イヤ俺たちこそは、生き生きとした演劇の世界に一思いに飛んでいこうではありませんか。
 ちょっとシラノ・ド・ベルジュラック風にいってみました。

 ところで他者です。
 演劇における他者です。
 演劇における他者とは、まず観客であり、台本であり、相手役であり、そして舞台に立つ自分自身です。
 ええ、他者というのは、つまり自分ではないもののことだろう。観客や、台本や、相手役はわかるよ。何で自分自身が他者なわけ。
 とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし私は、俳優が舞台に立つ自分自身を、他者だと思うことができるかどうか、そのことは非常に大事な問題だと考えています。
 もちろんこれは俳優論としていっていることなのですが、おそらく俳優論にとどまらず、演劇論、大きく言えば、芸術論までかかわってくる問題だと思うのですが、あまり話しを大きくしてしまうと自分自身いったい何を言いたかったのかわからなくなりそうなので、焦点を絞ります。
 舞台に立つ自分自身、つまり、俳優のことです。

 一人の俳優がいます。
 彼は大学時代に芝居を始めました。
 何故、芝居を始めたのかというと、彼は外国語が専門の大学に通っていたのですが、どうしても外国語をうまく話せるようにならず、簡単に言うと外国語に挫折し、それで芝居を始めたそうです。
 何も外国語に挫折したぐらいで、芝居をしなくてもと思われるかもしれませんが、今、演劇にかかわっている多くの人が、芝居に関わるようになったきっかけはたいていはそんなものです。多かれ少なかれ、何らかの挫折をし、実人生では得ることのできなかった夢を実現するために演劇の世界に足を踏み入れるのだと思います。
 つまり何を言いたいのかというと、多くの人にとって、演劇の場所は、夢を実現する場所だということです。
 演劇は、フィクションです。つまり虚構です。虚構に対する反対語は、現実です。つまり演劇は、現実ではない世界だということです。
 したがって、現実、つまり外国語の挫折した彼が、演劇に夢を追い求めてやってきたとしても、それはそれでごくごくありきたりの話です。
 さて、彼の話を続けます。
 彼の夢は、日本語でした。
 外国語ではなく、日本語ならもしかしたらうまく話せるかもしれない。彼はそう思ったのです。
 ところがことはなかなか、うまくいきません。
 日本語がうまく話せないのです。話せないどころか、台詞を覚えることさえやっとの有様です。
 台詞をしゃべるためには、ト書きと台詞によって構成された台本からその物語性を読解しなければなりません。その上で、その台詞がおかれている状況を考えなければなりません。ただ闇雲に台詞を丸暗記してもそれだけではしゃべることはできないのです。
 それは外国語の単語をいくら覚えても、それだけでは外国語をしゃべれないのと、ほとんど同じです。単語を覚え、構文を覚え、その構文が使われる状況を考えることができなければ、外国語をしゃべることができないのです。イヤしゃべることができたとしてもその外国語は通じません。
 つまり、外国語を習得するのとまるっきり同じことが演劇においても要求されるということ彼は理解することができなかったのです。
 演劇は虚構です。
 台詞がいかにわれわれが慣れ親しんだ日本語に似せて書かれているにしても、その本質は、虚構の世界で語られている言葉であり、外国語のようなものです。
 外国語に挫折した彼が、台詞という日本語に挫折したのは、そういう意味においては当然といえば当然のことです。
 彼は、台詞という日本語が、まるで外国語のようなものであるという事実に気がつかなかったのです。
 繰り返しますが、そこにかかれてある台詞が、いくら日常に近くかかれてあっても、その世界は虚構だということです。台詞を言うということは、その虚構の世界に生きるもう一人の自分を発見することです。
 もう一人の自分とは、すでに自分ではない自分です、自分自身いまだかつて出合ったことのない自分です。それは他者としか言いようのない自分自身の姿です。その姿はつかみ所がなく、浮かんでは消え、浮かんでは消えする、幻のようなものかもしれません。

 とにかく彼は日本語にも挫折してしまいました。
 言語に対しても彼の挫折感は相当のものだったのではないかと思われます。
 夢だったはずの演劇をやめようとさえ考えました。
 しかし現在彼は、演劇を続けています。
 続けるために、彼はもう一度外国語を学び直す決心を固めたそうです。
 おそらく彼は、まるで外国語のような日本語、つまり台本という虚構の世界に書かれた日本語を理解するためには、外国語を習得するための方法論が必要だということに気がついたのです。
 最近の彼は、街を歩きながら、人々の口から聞こえてくる日本語を収集しているそうです。メモを取ったり、テープレコーダーに録音したりしながら彼は街を歩き続けています。
 もちろんそれは日本語を学習するために彼自身が編み出した方法です。
 そして最近の彼は、日本語の世界の中に、まるで外国語のような日本語がまぎれていることに気がつたといいます。しかし残念なことに彼の外国語も、日本語もそんなには上達していません。
 語学と言うのは一朝一夕にはいかないものなのでしょう。
 日々これ精進、彼は明るい顔で、今日も街をふらついています。
 現在、彼は、言語に挫折した彼にとっての、もうひとつの夢(演劇)を考えているのではないかと思います。
 外国語にも挫折し、日本語にも挫折した自分という現実をしっかりと見据え、つまりそれは他者としての外国語や日本語に向き合うということなのですが、しかし向き合う自己もまた他者であるということに、おそらく彼は気がつき始めているのだと思います。
 今日も、街の中に、ひっそりと耳を澄ました彼がいます。

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