00年10月

00/10/10

『今の私にとって、演劇とは、俳優によって、その俳優に拘束された空間を超えていこうとする試みである。』

この一文は、1988年に開催されたアジアミーツアジア98に参加するための作品『箱』を作るために考えられた言葉である。
今のところ、この考えにはいささかの変更もない。
さて、『俳優に拘束された空間』とは『舞台』のことである。
あるいは、『舞台』上に生まれた『意味』や『物語』のことである。
ところで私たちは、『舞台』を『俳優が拘束された空間』として考えがちだ。
私たちは生まれる時や場所を選ぶことはできない。
『世界』はいつだって既にそこに在ったものとしてしか実感できない。
私たちの『世界』に対する根源的な違和感や不安はそこから生まれる。
私たちは気がつくといつも『世界』の中にいてしまうのだ。
そして、『舞台』を『俳優が拘束された空間』として考えさせてしまうのはそのような世界認識が在るからだ。
その場合、たいていの俳優は檻の中に閉じ込められた、自分自身を表す事に必死になる。
『檻』とは戯曲やテキストの形式のことである。
戯曲やテキストに書き込まれた登場人物の心理や内面を読み込むことで、俳優はここにはいないもう一人の自分や、ここではないもう一つの世界のあり方を観客に予感させようと努めることになる。
しかし『舞台』はいつだって『俳優に拘束された空間』なのだ。
『舞台』がどんな『意味』や『物語』を生み出したとしても、それはあくまで俳優がそこにいたことの結果にすぎない。『意味』や『物語』は、俳優によって生み出されたのだ。
その『意味』や『物語』を『檻』と感じる感性などほとんどどうでもいい。
俳優はその空間を超えるためにこそ舞台に立ち続ける。
決して自らが『拘束している空間』をなし崩し的に『拘束された空間』にしてしまうことのないような強い意志をもちながら、俳優は『舞台』に立ち続ける。
もはやここではないどこかも、もう一人の自分も何処にも存在しないのだ。
おそらく『舞台』は『俳優』と交わろうとするだろう。
また『俳優』を『舞台』上の『意味』や『物語』の中に飲み込んでしまおうとするかもしれない。
『舞台』を『俳優が拘束された空間』ではなく『俳優に拘束された空間』であると言い続けるために、『俳優』は闘いにも似た対話を続けなくてはならない。
『ここではないどこか』や『もう一人に自分』に希望ももたず、絶望もせずに、ただひたすらに『現実』を直視する人間の在り方を信じて、『俳優』は『舞台』に立ち続けるのだ。

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