テアトロ 2017・5月号
共生する空間へ 2「弱さの思想、負けない演劇」より

西堂行人  2017年4月

 

 ストアハウスカンパニーの『PARADE』を観た。シンプルだが太い線がまっすぐ通った、いい舞台だった。20世紀末に「フィジカルシアター」を提唱し、身体を基盤にした表現を追求し始めたのが、演出家・木村真悟を中心としたストアハウスカンパニーだ。彼らの舞台は、言葉を排した身体行動だけで成り立っている。だが、ダンスやパフォーマンスと違い、テクストは存在する。それが台詞として発語されないだけだ。わたしたち観客は聞こえない言葉を聞く。それは身体表現から発生するイメージや概念である。
 歩く-行進する-倒れる-ゆっくり倒れる-ペアあるいは集団で倒れる-転がる-脱衣する-衝突する-肌を叩き合う-着衣する-やがて歓喜、あるいは祝祭が訪れる。
こうした身体運動が、ピアノの伴奏に乗り、時には煽られながら1時間15分、延々と続けられる。そこに文学的ニュアンスやメタファーは感じられない。次第に俳優たちは疲弊し、身体は極限にまで摩耗していく。自意識が剥落し、ほとんど「衰弱体」(土方巽)とおぼしき無防備な身体がそこに.ゴロンと投げ出されてくるのを観客は目の当たりにする。
行為が積み上げられた時間から観客はさまざまな観念を醸成していくだろう。日常のどこにでも存在する無名の者たちが都市のなかに放置された状態。だがひとたび彼らが動き出すと、日常の仮想は解かれ、本質が垣間見えてくる。虐げられた身体、困惑し佇むより他ない身体、剥き出しにされた身体等々、さまざまな表情を持った身体が浮かび上がってくるのだ。それは誰からも守られず、共同体や国家からも保護されない身体、いわば「弱者たちの身体」だ。
舞台にある身体は一つのスクリーンとなって観客の心象風景を映し出す。そこから先は創作者の意図を超えて、観客のイマジネーションの世界が展かれる。
そこにわたしは、3・11以後の日本人の身体を発見した。

 

ページのトップへ戻る